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#930 是非なく、善悪なく、かれこれ全く一つなり

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

我が明治の乾坤[ケンコン]は、維新の後、日尚浅うして、百事安堵に至らずといふものから、さすがに学者文人の徒[トモガラ]が、その絶対の境界を棄て、専ら相対にのみ抅はるべき時にもあらじ、當世の務を怠るべからざるや勿論なりと雖も、傍ら絶対を追究するに於て、何のひがことかこれあらん。逍遥頑冥不學なりと雖も、三寸息絶ゆるまでは、心を文学の事に委ねて、眉間常に絶対を忘れず、長久[トコシナベ]に無限の旅途に上らんと望めるが故に、あらかじめ我が生涯を二境に分ち、絶対に対するときの我が覚悟と、現世(相対)に対するときの我が本領と、截然区別せんと試みたり。蓋し、わが此くの如く、我が生涯を二分するは、恐らくはわが所謂没理想が未だ、本體と得ならずして、方便の境界にあればなるべし。されば没理想の一變して、有理想となるか、しからざれば方便の没理想が大進化して、本體の没理想とならん時来たらば、我れ竟に二生涯を打成統合して、一生涯となし、絶対に対する覚悟をもて、相対に対すること、或はこれあらん。さる境界をこそ、将軍が所謂大宗教家、さては大哲学者の境界ともいふならめど、かゝる潜上の境界は、我が未だ夢想する能はざる所なり。今の逍遥が絶対に対するときの心は、猶夫のデカルトがそのはじめの大懐疑のごとし、なべてを疑ひて、是非をひとしなみに見たるのみ。前號にて、城南評論城主に答へつる如く、只悪差別見を擲たんが為に、發途の平等見に立ち戻りたるのみ。即ち絶対に対する時には、我が心の印銘を消除抹殺し去りて、わが心をtadula rasaとなさまくするなり。

「tabula rasa」とは、ラテン語で「磨いた板」という意味で、人は生まれた時には何も書かれていない白紙の状態でのちの経験によって知識を得ていく、というプラトンやストア派哲学の考えです。

かるが故に、此の境界にたちて宇宙を観るは、大智者、大覚者が、宇宙を観る時と頗る相似て、四圍空々寂々、絶えて是非なく、善悪なく、つゆ沮礙[ソガイ]無き點は、彼れ此れ全く一つなり。知と不知と覚と無明との大差別こそはあれ、わが心に是非なきからは、皆非皆是といふに於て、何の非かこれあらん、わが立脚の點も、彼れにひとしく、絶対なればなり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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