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#983 ここで一旦、鷗外の後没理想を振り返ります

さて……森鷗外の「早稲田文学の後没理想」はあまりにも長いので、ここらで一度振り返ってみたいと思います。

まず鷗外は、逍遥からの停戦申し入れについて言及します。

逍遥は「小羊子が矢ぶみ」で、

さて小生儀は、此のたびを以て、没理想に関する論辨は、一旦、相止め候はん存念に候へども、戯文とは申しながら、本號に於て、くさ/″\御高論に対し、難駁致し候箇處も尠からず候へば、差出[サシデ]がましき愚念には候へども、正當の御防禦あらせられんこと、勿論に可有之と奉存候。(#950参照)

という一文を寄せ、鷗外へ没理想論争の停戦を申し入れます。

鷗外はこれについて答えます。

逍遙子おほいに後沒理想の論を説き、説き畢[オワ]りて書をわれにおくりていはく。沒理想に關する論辨はこれにて一旦止むべし。されど汝はわがこたびの論のうちにて難駁[ナンバク]を蒙[コウム]りたるものなれば、正當なる防禦[ボウギョ]せよといふ。(#966参照)

勿論逍遙子はわれに防禦せよといひて、われに逆寄[サカヨセ]せよといはず。わが防がむことをば彼望めども、攻めむことをばかれ望まざるなるべし。然はあれど筆戰墨鬪の間にては、防ぐことと攻むることとの別をなさむこと甚難し。防ぐとは我言の非ならざるを示すなり。攻むとは彼の言の非なるを示すなり。我言の非ならざるを示さむとするときは、勢かれの言の非なるを示さゞること能はず。彼の言の非なるを示さむとするときは、勢わが言の非ならざるを示さゞるべからず。(#967参照)

そして、鷗外は、没理想から没却理想、さらに没却理想から次のステージへと「勝手」に発展させます。

われ今この文に題して早稻田文學の後沒理想といふ。(#968参照)

そして、あらためて、「没」の義の解釈から話をはじめます。

逍遙子は沒字に附するに埋沒若くは沒却の義を以てして、これを無の義に解せしを誤解なりといひき。
世人はいざ知らず、われは沒理想を無理想と解して、わが評者たる地位より罪を逍遙子に獲たりとすべきものなりや否や。おほよそ批評の力の及ぶ所は、評せらるゝ論旨の文字にあらはれたる範圍より外に出づること能はず。逍遙子は世人にも我にも必ず無理想の義なりとおもはるべき沒理想の語を用ゐて、別に解釋を附せざりき。……逍遙子は胸に沒却理想といふ一主義を蓄へて、これを文字にあらはさず、沒理想といふ一術語を製してこれに解釋を附せざりき。(#968参照)

わが沒理想を評せし後、逍遙子はその沒却理想の主義を示しき。逍遙子はこの主義を示したる後も舊に依りて沒理想といふ語を用ゐたりしに、われはこれを評するに當りて、沒却理想といひて、前の評に混ぜざらしめき。逍遙子のいはく。沒は沒却なり、埋沒なり。されど無を絶無、本來無とだにせずば、無なりと解せられても差支なしといへり。われは絶無ならざる無を以て無に非ずとし、多少その有を認めたるものとす。われは本來無ならざる無を以て無にあらずとし、早晩その有を認めたるものとす。かるが故にわが評者たる地位にありては、此間におごそかなる限界を設けて、沒理想より沒却理想に入りたる始終を明にせむとしたること、當然の理なるべし。(#969参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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