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第48日・台湾(中華民国)、金門島の慰安所

 翌朝早くに目を覚ました僕は、電動バイクを駆って、島の中央部のとある施設に向かった。  白壁に赤い屋根、中庭の花壇がかわいらしいコの字型の平屋の建物はいくつもの小部屋に分かれていて、中庭に面してドアが並んでいる。特約茶室展示館、かつての名を「軍中特約茶室」とか、あるいは「軍中楽園」といったこの建物は、1951年に国民党軍が設けた慰安所だった場所だ。共産党軍との戦争の最前線であったこの地に送られた十万近くの兵隊のため、従軍慰安婦が夜毎彼らの相手をしたのだ。 ▲「特約茶室展示館

    • 第47日・台湾(中華民国)、金門島

       台湾の金門県は、中国大陸から10キロと離れていない。中国領と最も近いところではその距離は2キロにも満たないのだそうだ。  ここ金門島の属する金門県と、福州の沖合、馬祖島の属する連江県は、中国大陸側にわずかに残った中華民国の支配領域である。両県はいちおう中華民国福建省に属するということになっているけれど、省という単位は「凍結」されているということで、台湾だけど福建省で、福建省だけど中国じゃなくて、中華民国だけど台湾じゃない、というよくわからないことになっている。  廈門から船

      • 第46日・中国、廈門(アモイ)と福建土楼

         中国人とインド人は日常的に痰を吐く。褒められた習慣とはいえないと思う。しかし彼らも別に、痰を吐くのが気持ちよくて好きだからぺっぺぺっぺと吐いているというわけではないようだ。痰を吐くのは空気が汚いからだ。僕もインドや中国に1日でもいると、大気汚染のせいで、気付いたら喉に痰が絡まってしまっている。文明人たるもの(中国ではマナーのよいことを「文明」という)街中で痰なんか吐けないと、僕は自分の痰を我慢して体内に留めていた。しかし咳はどうしても止められない。宿で会った中国人によると、

        • 第43日・中国、西安

           中国人が列車に乗るときの必需品といえば、ひまわりの種と半透明のプラスチックポットだ。イランから中国まで、ひまわりの種を齧る文化はシルクロードを覆っているようだ。ポットのほうは、茶葉を入れてお茶を出すのに使う。そのために駅や列車の中には必ずお湯の出る設備が設置してある。僕は水代節約のため、このお湯をペットボトルに詰めて飲んでいた。  甘粛省を横断して陝西省西安に至る快速列車は21時間かかる。切符が売れるのが早い中国、僕はこの21時間を「硬座(yìngzuò インツオ)」と

        第48日・台湾(中華民国)、金門島の慰安所

          第41日・中国、敦煌

           甘粛省敦煌まではウルムチから7時間かかる。動車組(dòngchēzǔ ドンチャーズウ)とか動車と呼ばれる高速鉄道CRHで5時間、そのあと乗合ワゴンで2時間だ。乗合ワゴンに2時間も乗らなくてはならないのは、高速鉄道をはじめとしておもだった鉄道が停車する柳園駅と柳園南駅が、敦煌市街からおよそ130キロ離れているためである。いったいなぜ一大観光地である敦煌を避けて、こんな小さな田舎町に本線を敷かなければならなかったのか理解に苦しむが、そうなっているものはそうなっているのだ。 ▲

          第41日・中国、敦煌

          第39日・ウイグル自治区、ウルムチとトルファン

           23歳の誕生日は、カザフ族のおばちゃんとトルファンの安ホテルの一室で一夜を過ごしつつ迎えた。  先に書いておくと、もろもろ無事だった。  バスで知り合ったおばちゃんは、ウイグル自治区側のホルゴス(霍爾果斯)で「拌麺」というウイグル料理をおごってくれた。普通話、つまり共通中国語をなまりのない発音で話していたおばちゃんは、店員や他の乗客とは、中国語とはまったく異質な言葉でしゃべっていた。何語ですかと訊くとカザフ語だという。おばちゃんはマイヌールという名前のカザフ族で、ウルム

          第39日・ウイグル自治区、ウルムチとトルファン

          第37日・カザフスタン、アルマトゥ

           アルマトゥは都会だ。札幌のように整然と道路が直交する町にはICカード式の市バスが縦横に走り、大きなショッピングモールもあれば地下鉄もある。  アルマトゥというのは当地のカザフ語の発音で、ロシア語ではアルマトゥイとかアルマティのように言う。よくアルマトイなどと書かれるのはこのアルマトゥイが日本式に転訛したものだ。また旧称のアルマ=アタという名もよく通じるが、実際はアルマタのように発音される。アルマタなのかアルマティなのかアルマトゥなのかあるいはアルマトゥイなのか、こうなるとア

          第37日・カザフスタン、アルマトゥ

          第35日・キルギス、ビシュケク

           オシュからビシュケクに至る14時間の道のりはとても美しく時間を忘れるはずだ。ただし、昼ならばの話だけど。  この寒い冬、夜に到着するのはどうしても厭だったので、夜行の乗合タクシーを選択した僕は、絶景を眺める機会をみすみす逃したうえ、到着したのは日の出前の朝6時、実に一番寒い時間帯だった。 ▲キルギスの山道。このあと美しい湖が昼だと見えるらしい ▲羊がたくさんいる。それはもうたくさん  1時間ほど震えながら待っていると、60キロほど離れた郊外の町トクマクへ向かうマルシュ

          第35日・キルギス、ビシュケク

          第34日・キルギス、オシュへ

           中央アジアに入ると、トイレには蛇口とホースのかわりに紙が備え付けられるようになる。もっとも紙がなく自前で持っていないとならないことも多いのだけれど。最初は手で尻を拭くことについて、人間の尊厳にさえ思いを馳せていた僕だったが、今こうして紙で拭くタイプのトイレを見ると、かえってひどく不潔に感じてしまう。中央アジアではトイレットペーパーの質も悪く、また紙を便器に流すと詰まることも多いため、使った紙は便器の脇の汚物入れに捨てなければならないというところも気分がよくない。  中央アジ

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          第32日・タジキスタン、ホジャンド

           フェルガナ盆地の南、タジキスタン北部ソグド州に入ると、空気はなぜだか煙がかかったように白く霞んでいた。雪を頂いた高峰が彼方にそびえているのが薄ぼんやりと見えるが、残念なことにどこまでいっても薄ぼんやりであった。 ▲タシケントのラグマン。焼きうどんだ  砂埃舞うタシケントの新市街はとにかくだだっ広く、ソヴィエト的計画都市という印象だ。朝9時前からタジキスタン大使館に並んで、パスポートと申請書類を提出して向かいのチャイハナで午後3時過ぎまで待機する(パスポートがなければ

          第32日・タジキスタン、ホジャンド

          第30日・ウズベキスタン、サマルカンド

           ウズベキスタンには2種類の両替レートがある。  ひとつは公式レートで、僕が訪れた2016年2月には、1ドル2千8百スム程度。もうひとつは闇レートで、1ドル6千スムという倍以上のレートで替えることができる。ウズベキスタン人は自国通貨を信用しておらず、なるべくドルがほしいということでこのような闇市場が生み出されたらしい。バザールや観光地に行くと、「マネー・エクスチェンジ?」とそのへんにいる人から声をかけてくる。20ドルも替えると、120万スムの札束を手にすることができる。流通し

          第30日・ウズベキスタン、サマルカンド

          第28日・ウズベキスタン、ブハラ

           トルクメニスタンではあまりまともな食事をできていなかったけど、ここウズベキスタンに入って、僕はようやく中央アジアらしい料理を味わうことができた。  第一によく見かける料理はシャシリク(шашликやshashlikなどと綴る)で、羊肉や牛肉の串焼きだ。肉を一口大にぶつ切りにして鉄の太い串に突き刺し、塩胡椒をまぶして焼いただけという、「肉なんてもんは、こうして喰うのが一番旨いんだ!」と言わんばかりの豪快極まる料理なのだけれど、これが実際滅法旨い。昔から肉を食べてきた遊牧民らし

          第28日・ウズベキスタン、ブハラ

          第26日・トルクメニスタン、ダーショグーズからウズベキスタン、ヒヴァへ

           僕はエグザイルになった。  このままのスピードでEXILEが増加していけばいずれ僕もそうなる日が来るとは予感していたけど、まさかここトルクメニスタンで文字通りのエグザイル(追放者)になるとは思ってもみなかった。  話はイラン・テヘランでのビザ申請にさかのぼる。  トルクメニスタンの通過ビザ申請には、入国と出国の国境検問所を指定しなければいけないということは前に書いた。そのとき、そのへんにいたトルクメン人に、「ウズベキスタンに抜けるのなら、出国はファラップ(Farap)国境

          第26日・トルクメニスタン、ダーショグーズからウズベキスタン、ヒヴァへ

          第24日・トルクメニスタン、アシガバートからダルヴァザへ

           イラン出国を逃したおかげで、僕は思いがけず貴重な経験をすることになった。その夜僕はイランの酒を飲んだ。  酒はもちろんイランでは禁じられている。密造酒である。アリーさんが自ら造ったというワインとウオツカは、ドイツ製の薬品の瓶に入れられている。 「これは薬だ。私たちは酒のことなど知らない」 ▲百薬の長  聞くところによると、こういう密造酒は実は多くの家庭で造られているらしい。法や戒律で縛っても止められない、人類の酒に対する情熱のようなものを感じる密造ワインは、果物の香りが

          第24日・トルクメニスタン、アシガバートからダルヴァザへ

          第23日・イラン、マシュハドの別れ

           マシュハドに来て以来僕は毎朝トルクメニスタン領事館に通っている。3回目の「未発給」の回答を得て、地下鉄でトラビネジャド家に帰るのにももう迷うこともなかった。  ご飯を食べさせてもらって、多少のペルシア語を仕込まれるだけの居候生活は暇だ。例によってボリュームの多い昼ごはんのあと、iPadで無料配信の漫画を読んでいると、アリーさんが「プールに行こう」と言う。けど水着がないんです、と言ったら、ビキニタイプの水着を貸してくれた。「新品だから」ということで渡された水着は、多少股のとこ

          第23日・イラン、マシュハドの別れ

          第21日・イラン、マシュハド居候生活

           イラン人にとっては、昼食が最も重要な食事なのだそうだ。トラビネジャドさんの娘夫婦も昼には仕事から帰ってきて、家族とともに食事を摂る。この家では午後の2時ぐらいが昼食どきのようだ。  キャバーブは薄切りの玉葱と一緒に食べる。トマト・レタス・きゅうり・人参を細切れにしたサラダ、ヨーグルトと粉にしたクルミと野菜を煮込んだスープ、それからプロウと呼ばれる米の飯を山盛りにして、黄色いサフラン・ライスを香り付けに使い、さらに茶色いおこげも傍に載せる。彼らはおこげこそが米飯の最上の部分で

          第21日・イラン、マシュハド居候生活