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第28日・ウズベキスタン、ブハラ

 トルクメニスタンではあまりまともな食事をできていなかったけど、ここウズベキスタンに入って、僕はようやく中央アジアらしい料理を味わうことができた。
 第一によく見かける料理はシャシリク(шашликやshashlikなどと綴る)で、羊肉や牛肉の串焼きだ。肉を一口大にぶつ切りにして鉄の太い串に突き刺し、塩胡椒をまぶして焼いただけという、「肉なんてもんは、こうして喰うのが一番旨いんだ!」と言わんばかりの豪快極まる料理なのだけれど、これが実際滅法旨い。昔から肉を食べてきた遊牧民らしい簡潔大胆な調理法で焼いた肉は、嚙みつくと肉汁が噴き出してきて、大変にビールに合うことも言うまでもない。ヒヴァ風の薄いナンで包んで食べてもいい。

▲シャシリクとビール。薄切りの玉葱が付け合わせ

 プロフ(пловまたはplov)もよく見かける、油の絡まったご飯だ。日本や西洋で食べるピラフの語源はもちろんこのあたりから来ている。砂漠の広がるウズベキスタンだけど、米は西北部ホラズム地方で作っているらしく、このプロフこそがウズベキスタンの国民食だと多くの人が言う。
 このプロフにはさまざまな種類があるけど、脂身つきの羊肉の塊や人参の千切りなんかが上に載っていることが多い。けっこう脂っこいのだけど、ナンを食べたり、チャイを飲んだりすることで口の中は自然とすっきりしてくれる。このあたりでは緑茶が出てくることが多いようだ。

▲プロフ。もっとごろごろとした肉が載っていることが多い

 ラグマン(лағманあるいはlag‘man)はうどんのような麺料理だ。トマトスープに入っているものも、焼きうどんのようにしたものもラグマンという。これも基本的に外れがない料理だけど、なぜか昼過ぎには売り切れてしまっていることが多い。スープ切れか何かだろうか?
 これらの料理は別にトルクメニスタンでも食べることはできたようなのだけど、弾丸日程のせいでまともに食堂に立ち寄ることすらできなかった。トルクメニスタンで食べた肉の煮込みがなんと呼ばれているのかはわからない。
 料理名の綴りにキリル文字もラテン文字もあるのは、ウズベキスタンではその両方が通用しているからだ。独立後にそれまでのキリル文字表記からラテン文字正書法に公式には改めたはずなのだけど、公的機関以外ではいまだにキリル文字で看板などが書かれていることも多い。通貨のスム紙幣にもキリル文字でсўмと書かれている(最近の新札ではようやくラテン文字でso‘mと書かれているようだ)し、独立後25年になろうとしているのにこの状況というのは、あまり本気で改革に取り組んでいるわけではないのかもしれない。

▲野菜を取るにはやっぱりラグマンだ

 ヒヴァからブハラへは乗合タクシーで移動した。ウズベキスタンには都市間バスのようなものはほとんどないらしい。バスの深夜運行は禁止されているとかいないとかで、夜行バスがあらゆる都市を結んでいたイランと比べるとかなり不便だ。
 タクシーといっても、中央アジアのタクシーは基本的に白タクで、適当に人が集まったら発車するというシステムだ。人が集まらなかったらどうなるのか? 空席分の料金も支払わないといけない。だから乗合タクシーに乗ろうとするときは、「もう他の客は乗っているか?」と確認する必要がある。
 しかしそれでもうまくいかないこともある。宿で呼んでもらった乗合タクシーは、ウルゲンチまで他の予約客を迎えに行ったのだけど、なぜかその客がドタキャンしたせいで、そのしわ寄せは僕にきた。ブハラまで45ドルは高すぎる。ドタキャンする人間はどの国でも他人に迷惑しかかけない。

▲キジルクーム(赤砂)砂漠を横切るアムダリヤ川。棉花栽培のための灌漑のせいでアラル海に流れ込むぶんがなくなってしまい、アラル海はほぼ消滅してしまっている。この川の向こうはトルクメニスタンだ

▲かわいらしい4本のミナレット、ブハラのチョル・ミナル

▲アブドゥールアジス・ハン・メドレセのエイヴァーン(開口ホール)天井は色鮮やか

 トルクメニスタン出国までは僕は裸足にサンダルという足許をインド以来貫いていたのだけど、ウズベキスタンに入ってようやく高校時代北海道で履いていたスノトレに履き替えることにして、耳当てとスキー用の手袋も転がしパックから引っ張り出してきた。結果的にそうして正解だった。
 ウズベキスタン中部、ブハラの町は朝から寒風が吹きつけてきて、そのうえ雨も降ってくるありさまだった。鞄から折り畳み傘を取り出して、こういう氷点下にならない、雪が降らないくらいの寒さが一番きついんだよなと考えていたら、雨はそのうち雪に変わってきた。雪というよりは霰に近く、ぱちぱちと顔に当たって痛い。寒さはなるほど雨のときよりは幾分ましになったようにも思えるけど、この寒さは地元の人にもきついようで、メドレセ(イスラーム神学校、アラビア語ではマドラサ)内に並ぶお土産屋も大半が閉まっている。

▲唯一土産物屋化せず、現役神学校としてカイロのアズハル大学などにも留学生を輩出する、ミリ・アラブ・メドレセ

▲雪のブハラ

 一眼レフカメラには百均で買った透明な女性用シャワーキャップをかぶせて保護し、がんばって観光を続けていると、中央アジア現存最古の建築物だというイスマーイール・サーマーニー廟の前で、ウズベキスタン人のカップルが、スマホで写真を撮ってくれと頼んできた。

▲イスマーイール・サーマーニー廟。煉瓦だけで造られている

 もちろん承諾して、スマホを構えて一枚撮ると、「もう一枚」と言って男が女の肩を抱く。それを撮ってやると「もう一枚」と、今度は抱き合っているところを撮らされ、手がかじかむのをこらえながらこれでいいかと訊くと「まだ!」。場所を移動してまた抱き合ったりピースしたりしているところを撮らされてから、ようやくスマホを受け取ってくれた。僕の手の指はもう感覚をなくしていた。デートで愛を温めあうのは結構だけれど、僕の冷えきったこの手はどうしてくれるのか、僕は商店でワインを買って宿でさみしく飲んだ。外は粉雪になっていた。

▲バカップル。ブハラの宿ではトルクメニスタン国境とヒヴァの宿で会ったイタリア人カップルと再会した

▲いかにもソヴィエト的な観覧車。ゴンドラに壁がない

前回 第26日・トルクメニスタン、ダーショグーズからウズベキスタン、ヒヴァへ

次回 第30日・ウズベキスタン、サマルカンド

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