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第23日・イラン、マシュハドの別れ

 マシュハドに来て以来僕は毎朝トルクメニスタン領事館に通っている。3回目の「未発給」の回答を得て、地下鉄でトラビネジャド家に帰るのにももう迷うこともなかった。
 ご飯を食べさせてもらって、多少のペルシア語を仕込まれるだけの居候生活は暇だ。例によってボリュームの多い昼ごはんのあと、iPadで無料配信の漫画を読んでいると、アリーさんが「プールに行こう」と言う。けど水着がないんです、と言ったら、ビキニタイプの水着を貸してくれた。「新品だから」ということで渡された水着は、多少股のところがゆるかったけど、まあ文句は言えない。

▲町の西側では地下鉄は地上を走っている

 プールには、車屋で見た顔のトラビネジャド一族の人々がたくさん来ていて、ほとんど貸切のようになっていた。このプールはもちろん男性専用だ。ロビーの角に大きな写真と花が飾ってあって、デーツが皿に盛られて置いてある。
「彼は我々の友人だった。1週間ほど前に亡くなったんだ。強い男だった」
 デーツはお供え物なのだった。その場の全員にお供え物のデーツとチャイが振舞われ、静かな雰囲気になったところで、全員が「ラー」と唱和した。口を揃えて唱えているのは祈りの言葉だろうか。
 突然歌声が響きわたった。歌っているのはアリーさんの従兄弟だという壮年の男性だ。震えるように力強く嘆じ、大波のような抑揚で朗々と歌い上げる声は、言葉などわからなくても切々とした哀しみを感じさせて胸を打つ。後でアリーさんに聞いたところでは、この歌はかのウマル・ハイヤームの『四行詩集(ルバイヤート)』の中の別れの詩だということだった。

▲お昼ごはんはピラフ、イランではポロウという

 一様に胸毛の濃いイラン人たちとプール脇の温水ジャグジーに入り、マン・ジャーポーニー・ハスタム、私は日本人ですと仕込まれたてのペルシア語を使いながら、次はサウナに入る。ここでもアリーさんの従兄弟が『ルバイヤート』を朗唱した。この狭くて人の多いサウナの中で、驚くほどの声量でこんなに力強く歌って、酸素が足りなくならないのかと思うほどだった。
 プールにいる人の1割以上がトラビネジャド家の親族だということだった。平日の夕方から男たちがみんなしてプールに集まるのは日本だとなかなかないことじゃないかと思う。さてプールで泳ぐかと思ってひょいと入ったら、全く足が地面にぶつからずに一瞬あわててしまった。このプールは深さが2.7メートルもあるらしい。久しぶりに泳いで身体を動かして、疲労も気持ちよかった。水泳のいいところは汗の不快感がないところだと思う。

▲胡麻油を絞る油屋さん

 プールのあとはまた車屋にだべりに行った。アリーさんと親戚の男の人が、バックギャモンによく似たイランのボードゲームで対戦するのを僕は横で見ていた。2つのサイコロを振って白石と黒石を動かしながら取り合うゲームのようだったけど、サイコロの目と同じ数のマスだけ石を動かせるということのほかは、見ていてもさっぱりルールはわからなかった。サイコロを使うので運の要素も強いのだと思うけれど、3回戦って3回ともアリーさんが勝利していた。
 イランと日本の関係について、サーサーン朝からシルクロードを通って正倉院まで「白瑠璃碗」などの宝物が運ばれていて今も保存されているという話をしたら、イラン大好き国粋主義者のアリーさんはたいそう喜んで、親戚の人々にラインやテレグラムという似たようなアプリで画像を送ったり、車屋の人々にいちいち説明したりしていた。

▲イラン式バックギャモン、タフテブというらしい

 親戚の何人かにインスタグラムをフォローされてから、車屋を出てアリーさんの末の娘夫婦の家に向かった。家には3か月になるという初孫の女の子、ロニカちゃんがいて、アリーさんは聞いたこともないような猫なで声でロニカちゃんに頰ずりしていた。ロニカという名前には、ビューティー・フェイスという意味があるとアリーさんが言うので、日本名は「美子(よしこ)」ですかね、と言うと、「『おしん』みたいね!」とお母さん。イランでも『おしん』は一大旋風を巻き起こしていたということだったけど、僕は『おしん』を観たことがない。外国では『おしん』が日本のイメージというところも多いみたいで、今度日本に帰ったら一度観ておこうと思った。

▲心臓や腎臓の串焼き。おいしい

 昼ごはんの量が多いからか、イラン人の夕食どきはもう日付が変わるか変わらないかぐらいの時間だ。今夜出てきたチキンのトマト煮は、世界中どこで食べてもはずれのない味だ。一緒に食べるのは米と石焼きのナン。イランでは米とナンを同じ食事に食べるみたいだ。
 体重が120キロあるという、筋肉がかちかちの娘婿が、ドゥーグという白い飲み物を注いでくれた。しかしこれがものすごい味で、ヨーグルトに塩と酢を入れたような、およそ理解しがたい味覚である。けれども居候の身、出されたものは笑顔で飲まないとと思ってがんばって半分くらいに減らしていると、気に入ったと思われたのか再び満杯まで注いでくれて、白い絶望を前にして僕は何か神的存在に祈りめいたものを捧げるしかなかった。
 なおドゥーグの名誉のために書いておくと、翌朝出された別銘柄のドゥーグは、好きこのんでは飲まないけど慣れればまあ大丈夫だな、という程度の味ではあった。

▲マシュハドはサフランの町でもある。1グラム9千リヤル(約360円)

 ビザ申請後11日目、2月4日になって、ようやくトルクメニスタンのビザを手に入れることができた。ビザ代は55ドルとなかなかに高額だ。有効期間には変化がなく、7日までに出国しないとならないのは変わらない。
 アリーさん一家ともこれでお別れだ。
「別れるのはさみしいよ、もう君は私たちの息子と変わらない。行く先々で写真を送って無事を知らせてくれ。またいつでも来てくれ」
 アリーさんの奥さん、パルヴィーンさんが僕に、道中食べなさいと、林檎やバナナ、人参などの食べ物を持たせてくれた。アリーさんはプールで僕が履いた水着をそのまま僕にくれた。
 たまたま会っただけの、どこの馬の骨とも知れない外国人にここまでよくしてくれて、トラビネジャド家の人々のおかげでイランは僕にとって終生忘れ得ない国になった。
「国境に近いグーチャンの町まで行ってから、またタクシーで国境のあるバージギランに行くんだ」アリーさんとイラン式に抱きあって、タクシー乗り場で車に乗り込むと、思いがけず涙が滲み出てくる。人生足別離、さよならだけが人生か、さらばイラン、素晴らしい国よ——。
 感慨に浸っていると、なぜかアリーさんが戻ってきて車の窓を叩く。
「聞いたところトルクメニスタンの国境は昼の3時で閉まるらしく、今日はもう間に合わないそうだ。……うちに戻るか?」
「……戻ります」
 しっかりと落ちもついた。

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