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第24日・トルクメニスタン、アシガバートからダルヴァザへ

 イラン出国を逃したおかげで、僕は思いがけず貴重な経験をすることになった。その夜僕はイランの酒を飲んだ。
 酒はもちろんイランでは禁じられている。密造酒である。アリーさんが自ら造ったというワインとウオツカは、ドイツ製の薬品の瓶に入れられている。
「これは薬だ。私たちは酒のことなど知らない」

▲百薬の長

 聞くところによると、こういう密造酒は実は多くの家庭で造られているらしい。法や戒律で縛っても止められない、人類の酒に対する情熱のようなものを感じる密造ワインは、果物の香りが強く、素人ものと思えぬほどおいしい。続くウオツカも60度という本気のもので、こちらも大変おいしかった。原料は葡萄だということだったので、むしろブランデーやグラッパに近いのかもしれないけど、無色透明・無臭のこの液体はなるほどウオツカらしい。
「革命前はマシュハド近くに最高のウオツカ蒸溜所があったんだ」
 革命は社会体制を全く作り変えてしまおうとするものだ。法制度は保守的なイスラーム法になり、特に女性の生活は大きく変わった。今では電車でもバスでも、車輛や座席は男女で明確に区分されている。メトロの女性専用車輛が電車の前後の端1輛ずつしかないのは、イラン女性が外出してメトロに乗るということが男性よりはるかに少ないからだという。
 一方で、革命後には、全国いたるところに、街中ならば数十メートル間隔で、募金箱が設置されるようになった。これはイスラームの喜捨(ザカート)の義務に基づくもので、たまに屋内で見る透明の募金箱には、どれもけっこうな量のお札が入っている。

▲寄付箱

 翌朝、アリーさんに送られて、マシュハドからバスでグーチャンに向かい、そこから国境のバージギランまでタクシーで向かった。タクシーは山道を上る途中何度かオーバーヒートして、そのたびに運転手はボンネットを開けて冷却器に水を注ぎ入れていた。韓国車はだめだ、やはり日本車だ、と運転手は言っていたけど、そんなことよりも1速で80キロとか出すのがよくないんではないかと思わないではいられなかった。

▲雪で冷やす。このあとめちゃめちゃぼられた

 イランからの出国は簡単に済んで、徒歩でトルクメニスタン側の検問所に入る。検問所の入口の上には、故ニヤゾフ大統領の巨大な肖像が掲げられていて、「中央アジアの北朝鮮」に入るのだという緊張をかきたてる。
 入国税12ドルを支払って、無事ビザにスタンプを得ると、今度は税関検査だ。所持金を正確に記入せよとあったけど、米ドル以外は面倒だから申告しなくてよいということだった。
 トルクメニスタンの税関検査は、荷物を全て開けてチェックしてくる。コンタクトまで「これは売り物ではないな?」といちいち確認される。薬は持っているかというので、そういえば前にもらった高山病の薬が鞄に入っていたと思って、これがありますと申告する。
「何の薬だ? アスピリンか?」
「これはあの、高山病の薬で……」
「アスピリンだな?」
 たぶんアスピリンということにしておけば問題がないのだろうと察して、今後はすべての税関でこれら薬をアスピリン(的なもの)と言うことにした。別の係官は『歩き方』のトルクメニスタンのページを眺めている。さらに別の30ぐらいの女性職員がやってきて、トルクメン語で何か言ってきた。英語のできる若い係官が通訳する。「『あなた、私に顔似てるわね』とのことです」。
 意外と面白い国かもしれない。

 国境からは緩衝地帯というのがあって、バスで通過しなければならないらしく、いかにもソヴィエト的なデザインの青いバスに乗り込むと、謎のアップテンポなトルクメン音楽が流れ出して発車した。
 国境を越えた瞬間、人々の姿恰好は大きく変わった。女性は、どういう構造なのか、後頭部に円柱状にスカーフを巻いている。顔は明らかにモンゴロイドだ。おばちゃんたちは一様に恰幅がよく、『天空の城ラピュタ』に出てきそうだ。
 ここからは旧ソ連、ロシア語圏だ。僕のロシア語は相当怪しいけれど、ペルシア語と違って多少でも通じるのはありがたい。

▲強そうなトルクメンおばちゃん

 ビザの期限は変わらず7日なので、トルクメニスタンには今日を含めて3日しかいられない。僕は首都アシガバートでの観光をあきらめ、一気にダルヴァザまで向かうことにした。
 車窓から眺めるアシガバートは近代的というか未来的な都市で、あらゆる建物が白く整然と、まるで規律から外れることは許されていないかのように並んでいる。そしてたぶん本当に許されていないのだろう。なぜかどの建物の窓ガラスも真っ青で、昔のシムシティのような、どこか噓みたいな感じのするビル群だ。未来都市のような、東京はお台場のゆりかもめに似た雰囲気の白いモノレールも目下建設中だった。ところどころに巨大なモニュメントや大統領の巨大像、大統領の肖像画の描かれた建物などが構えている。

▲金色の大統領像のおわします独立記念塔

▲何もかもが白い

 郊外に出ると、大きな一軒家がこれまた整然と等間隔に並んでいる。デザインの全く同じ建物が100棟も200棟も並べられていて、建売住宅というよりは政府による住宅サービスなのではないかと想像する。それにしても、何もかもが統一された街はすこし不気味で空恐ろしい。この町は計画されすぎている。誤りや綻びを少しも許容しないかのように。
 町の北部、グンドガル・バザールと書かれた巨大な面積の建物の向かいにて、北行きの乗合タクシーに乗り換える。僕のほかにはトルクメン人の中年夫婦と、おじさんが一人。運転手は何か企んでいそうな容貌をしている。ダルヴァザまでは45マナト、ドルなら15ドルだという。アシガバートを通過してきてしまったので、現地通貨は1マナトも持っていない。レートもわからないが、ドル払いするほかはない。

▲コピペしたような住宅群

 タクシーはカラクーム砂漠を突っ切る幹線道路を北に向かってぶっ飛ばす。カラクームとは黒砂という意味らしいけれども、前を走る車が舞い上げる砂は白に近い色だ。たまに駱駝がゆっくりと歩むのも見える。このあたりの駱駝は長毛種のようでずんぐりむっくりした姿だ。行けども行けども砂漠。地平線にゆっくりと太陽が沈んでからも、対向車のヘッドライトを遠くに見ながらなお走り続けてやっと、道路沿いの掘っ建て小屋のようなところに着いた。ダルヴァザだ。数百メートルおきに何軒か同様のチャイハナ(茶店)が見えるほかは何もない。村と呼んでいいかも疑わしい。

▲砂漠にぽつんとチャイハナ

 カラクーム砂漠縦貫道路のほぼ中間地点に位置するダルヴァザは、ドライバーたちの休憩地にもなっているのか、意外と広くいくつかの部屋があるチャイハナで、男たちが飯を食べたり煙草を吸ったりしている。僕もひとまず羊肉のぶった切りを煮込んだ料理をナンと一緒に食べた。次々と現れる男たちが僕に、どこから来た、何者だ、とロシア語で質問してくる。一人の男が、トルクメニスタンのコニャックを飲まないかと訊いてきた。もちろん飲みます。
 中央アジアではブランデー類はすべてコニャックと呼ばれているそうだ。トルクメン人は酒を飲む前に、その場の全員の健康を願う口上を述べるんだ、と英語の多少できる男が説明してくれた。くっと吞んだコニャックは、42%と書かれているわりには優しい味で、勧められるままに2杯、3杯と飲んでしまった。「まあ本当は30%もないくらいさ」と男が笑った。

▲コニャック。甘いチョコレートを一緒につまむ

 ダルヴァザなどという寒村とも呼べないようなところにやってきた最大の目的は、「地獄の門」を見ることだった。ダルヴァザはトルクメン人はデルヴェゼなどとも発音するが、この地名じたい、ペルシア語系で「門」を意味する言葉ではないかと思うので、そうだとすれば「地獄の門」ありきの地名ということになる。ソ連時代の1971年、落盤事故による大穴からガスが噴き出し、有毒ガスが広がるのを防ぐために点火したところ、それが45年後の今も燃え続けているのだという。
「地獄の門」まではチャイハナから徒歩で2時間弱も歩けば行けるそうだけど、寒かったのでバイクで送ってもらうことにした。往復で20ドルだ。満天の星が輝く砂漠をバイクでごりごりと進むと、間もなく遠くに明かりが見える。あれが地獄の門だ。だんだんと明かりは大きくなっていき、空に星が見えなくなったころ、直径100メートル近くはあろうかという巨大な穴が燃えているのが目に入る。

 穴の縁まで歩いてみる。遮る柵も何もなく、急崖から落ちれば骨になるまで焼かれてしまうだろう。寒い砂漠の冬の中でも、ここでは穴から熱風が吹きつけてくる。たまに鼻をつく臭いは有毒ガスだろうか。手の付けようのないエネルギーが、隔絶された砂漠の真ん中で存在を主張している。

 天に星はもう見えない。砂漠の果てはどこまでも真っ暗闇で、まるで宇宙にこの燃えさかる恒星のような穴と、自分ただ一人としかいないかのような感覚になる。あるいはほんとうにただ一人なのかもしれなかった。無のなかに炎と自分とがいて、ほかの文明世界はみんな消えてなくなってしまったのではないか。いや、世界とか社会とかから消えてしまったのは僕のほうだろうか。無のなかに炎が燃えているだけ。このちっぽけな自分が砂漠の砂と消えたところで、あまりに茫漠たるこの大地にはすこしの変化もないのだ。
 凄まじい光景だった。遠いところに来た、と、炎を見ながら思った。

前回 第23日・イラン、マシュハドの別れ

次回 第26日・トルクメニスタン、ダーショグーズからウズベキスタン、ヒヴァへ

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