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第48日・台湾(中華民国)、金門島の慰安所

 翌朝早くに目を覚ました僕は、電動バイクを駆って、島の中央部のとある施設に向かった。
 白壁に赤い屋根、中庭の花壇がかわいらしいコの字型の平屋の建物はいくつもの小部屋に分かれていて、中庭に面してドアが並んでいる。特約茶室展示館、かつての名を「軍中特約茶室」とか、あるいは「軍中楽園」といったこの建物は、1951年に国民党軍が設けた慰安所だった場所だ。共産党軍との戦争の最前線であったこの地に送られた十万近くの兵隊のため、従軍慰安婦が夜毎彼らの相手をしたのだ。

▲「特約茶室展示館」の中庭

 50年代、中華民国軍人は結婚を許されておらず、夥しい兵隊の流入によって金門島の男女比は著しい不均衡にあった。兵隊は島民と雑居していたので、自然、痴情のもつれからくる事件が起きてもきたし、また守備兵による婦女暴行事件が起きるなど軍紀の乱れも目立った。そこで軍上層部は「軍中楽園」と称して公娼館を設立、その後「特約茶室」という濁した名前に変えて、最盛期には島内に7か所の特約茶室があったという。
 展示室のドアをくぐると、壁にキャプションが書かれている。
「慰安婦制度の歴史は長く、また世界中に存在した」

 展示館の説明によれば、慰安婦となった女性たちは、高給のために自ら志願してきたのだという。茶室にはそれぞれ「老鴇(lǎobǎo ラオバオ)」と呼ばれる女主人、いわゆる遣手がいて、慰安婦たちに「お前たちはここに金を稼ぎに来たのであって、客である兵士と男女の仲にならぬように」と戒めたが、実際には兵隊と恋仲になる慰安婦が後を絶たなかった、と壁の説明書きにある。

▲展示室の出口に書かれていた言葉

「ここにいた女性たちは、強制されて娼婦となったのではないし、『誰がために戦うか』(訳注・国民党軍のスローガン)という号令のもと喜び勇んでそうなったのでもなかった。都会の軍慰問団のように人々の拍手に送られたり、脚光を浴びることもなかった。彼女たちは声を立てずに来て、息も洩らさずに去った。前線では戦火に焼かれて死ぬのは珍しいことではない。名もなき彼女たちは、亡くなっても戦友録に名を留めることもない。彼女たちは、金門島の皆と苦楽を共にし、生死を共にしたのだ」

 兵士の残した言葉も記されている。
「島は僧院ではない。かくも多くの軍人が長期にわたり駐留しているのだ、女がいなくてどうしたらいいだろう?」
 中華民国の従軍慰安婦制度が正式に廃止されたのは、1990年代に入ってからだという。

 慰安婦という言葉は、日本では歴史的というより政治的な言葉になっている。僕はここで日本軍の慰安婦徴用に係る強制性の有無とか、戦争における犯罪性とかを云々するつもりはない。この特約茶室だって、実際にどうだったのかは知らないけど、慰安婦たちは自ら志願して来たというのだ。そんなことは問題にしていない。思いを致すのは、「女がいなくてどうしたらいいだろう?」という精神性、決して歴史的ではない人間本能だ。
 都市と農村。自由民と奴隷。農場主と小作人。征服者と原住民。帝国と殖民地。先進国と途上国。エスタブリッシュメントと移民。大本営と特攻隊。親会社と子会社。元請けと下請け。資本家と労働者。正社員と非正規。先輩と後輩。総合職と一般職。そして男と女。
 宗教も、近代憲法も、共産主義も、もろもろの社会制度も、いまだにこの人類の搾取の本能を抹消するに至っていない。むしろこうした「分業」が、この搾取の本能こそが人類社会を今日の姿に発展させてきたのだと主張する歴史家なり経済学者が現れても僕は驚かないし、実際にそうであったのかもしれないとさえ思う。トリクルダウンとかいう理論だって現実に主張されているじゃないか。「アダムが耕しイヴが紡いだ時」、そんな時代が果たして歴史の上にあったかどうか。

 男性の先進国民で、北海道では和人として育ち、国内では高水準とされる教育を受け、大企業で食い扶持にありつこうとしている僕は、さきに述べたような構造の上にあぐらをかいているほうの人間だ。学問の有無によって身分の差ができると福沢諭吉は言ったけれど、自分の身分は努力以上に好運によって築かれているものだということはさすがに知っている。そうしてこの特約茶室の女性たちのことを思うとき、そこにどんな悲哀があったのかという想像は、自分の善性を信じたいがための、底の浅い、自慰行為じみた同情心以上のものではありえない。

▲客をとるための小部屋。奥には浴室がある

 彼女らが兵士と恋仲になったのは、自らの置かれた境遇を自分に納得させ、その自尊心が壊れてしまわぬように満足させるためだったかもしれないというのは穿ちすぎた見方だろうか。
「『納得』は全てに優先する」とは荒木飛呂彦の漫画の言葉だけど、人間にとって最も重要なのはその自尊心であって、納得することでその誇り、自尊心を守ることができる。ブラック企業の労働者が「やりがい」を求めるのも、突撃兵が尽忠報国とか天皇陛下万歳とか叫ぶのもすべて同じところに発する。慰安婦たちもまた、自分の肉体を買う兵隊たちとの恋愛によって、その膣が単なる性処理の道具ではないと信じなければならなかったのではないか。
 もっとも、身体を売るということがいったいどういうことか僕には知りようもない。坂口安吾は戦後のパンパンガールを「明るく快活」と評した。「すべての娼婦は明るい」とは村上龍の言葉だ。もしかすると慰安婦たちも実際案外楽しく過ごしていたのかもしれない。僕は結局のところ男なので、本当のところは知りようもない。

 僕は旅行中に女性を買わない。というか、女性を買ったことがない。もちろん、デートを重ねて女性の歓心を買い彼女と付き合うことを、最広義の買春の一種と認めないならばだけど。
 男の旅人には買春をする人間が多い。偏見だけれども東南アジアには特に多い。ぽん引きに連れられてビルの一室に入ると、人種も国籍もさまざまな女たちがずらっと並んでいて、気に入った女を選び別室に連れていくことができるのだ、などと安宿で缶ビールを片手に話す旅人をこれまでにたくさん見てきた。インドネシアでは安宿の主人に「ユー・ウォント・ヤング・レディ?」としつこく訊かれた。値段は50ドルぐらい。しかし僕はいつもノーと言う。
 しかしいったいなぜ僕は買春をしたくないのか? 僕は別にモラリストではないし、法律を是非とも守るべきだとも思わない。女を買うことが恥ずかしいからしないのでもない(一人で外国にいて、だれが見ているだろう?)。
 考えてみると、買春は、特に旅行中のそれは、自分の旅する場所を最も暴力的に消費する行為だ。僕は旅行をするとき、消費的な旅行はしたくないと思っている(この言葉はあとで書くように完全に矛盾だけれども)。ビーチリゾートなんかがその象徴的な例だ。ハワイに1週間行ってきたよ、まああんなところはほとんど日本だね、ハワイは最高だよ、フレンチレストランはおいしかったし、ホテルも綺麗だったしさあ。彼にとってそれは別にハワイでなくてもいいのだ。グアムでもいいし、タヒチでも、パラオでもいい。美しい海と、綺麗で気の利いたサービスのホテルがあればいいし、アクティビティなんかできればなおいい。別にその国の文化だの歴史だの人々だのには興味がないし、スタッフの浅黒い兄ちゃんが日本語を話してくれればもう言うことはない。
 もちろんビーチリゾートを悪いとは言わないし、日頃の疲れを吹き飛ばすのにビーチリゾートは最適だと思うけれども、しかし上に述べたスタンスの延長線上には買春がある。女の人格などどうでもいい、肉体だけ楽しめればいいというのと、ビーチリゾートだけ楽しめればいいというのにはほとんど違いがない。
 僕は、土地のものを食べ、土地の人々と話し、土地の人々の生活を感じたいと思う。また、女の人の考えていることを知りたいと思う。気持ちの通じない人を抱いても、きっと翌日には忘れてしまうだろう。
 もちろん何度も言っているように、僕たちは外国を本当の意味で理解することはきっとできないし、旅行者としてその国の上を過ぎ去っていくだけの人間がそこに暮らす人々のことを実際に理解できるはずがない。そして女性も、男から見れば完全に異文化の存在であって、女性の心の動きを知ることなどできはしない。しかし「知る気がない」と「知りたい」には、結果がどちらも「知ることができなかった」と終わるにせよ、大きな違いがあると信じたい。

▲金門島西部・水頭集落の閩南建築

 けれどそもそも旅行とは本質的に消費であって、だから買春と結局は異ならない。土地の生活を感じたいというのは、つまり好奇心であり、ポルノだ。土地の人々からすれば旅行者は異物であり、自分たちを見世物にする汚い観客だ。そして女性と付き合うことが買春的でないとどうして言えるだろう。デートで歓心を買うのと、万札を握らせるのと何が違うだろう。
 結局、消費だから何が悪いんだと開き直るしかない。そして実際に消費そのものは近代の社会では悪いことではない。本質的(であるかはともかく、そうだとされている)価値以外のところを評価することを消費というなら、われわれはみな消費し消費されているからだ。道行く人を見て、かっこいいな、美人だなと思うなら、思っただけで、それはすでに消費だ。不細工だなと思うことも消費だし、婚活パーティーで年収を尋ねることも消費、ファッションモデルに現役慶應大生などという煽り文句をつけることも消費だ。消費行為の原動力は人間の自然な心の動きにほかならないから、その心の動きが社会的に形成された文化によるものか、生物学的本能によるものかにかかわらず、それを止めることはできない。法や制度はそれを行動、たとえばセクハラや強姦に移すことは抑制するけれど、心の中の消費は止められない。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである」というキリストの訓示はまさにこのことを指摘したものだ。内心を統制する制度のことを宗教や倫理、道徳という。
 近代的な考え方をすれば、内心の消費や姦淫はしてもかまわないけども、他人に迷惑をかけるな、というところに落としどころがくる。ここでようやく買春を否定する論理が説明できる。買春は多くの場合売春婦の自由な経済活動ではなくて、貧困や債務やホスト狂いや、さまざまな理由で抑圧されてそうせざるを得なくなっているものだからだ。だから彼女を買うことは、そういう構造的な抑圧に加担するという意味で、暴力になるだろう。もし本当に芯からの自由意志で「さあ私の身体を買った買った!」とやっている売春婦がいるのなら、さあ、それは勝手にしたらいい。そこに暴力はない。
 ビーチリゾートには買春ほどの暴力性はみられないけれども、リゾート開発のために島民の暮らしが犠牲になっている事例も探せばいくらでも見つかるだろう。きらびやかなリゾートホテルからすこし車を走らせれば、水道や電気も満足にないような民の暮らしがあることだって。旅行にあたっては、自己満足にすぎないけれども、なるべく暴力の少ない消費をしたいと思う。それともそんなことはやはり無理だろうか。

▲元宵の夜にねぶたコンテスト的なものが行われたらしい。入選作品の、どこかで見た齧歯類

前回 第47日・台湾(中華民国)、金門島

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