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第43日・中国、西安

 中国人が列車に乗るときの必需品といえば、ひまわりの種と半透明のプラスチックポットだ。イランから中国まで、ひまわりの種を齧る文化はシルクロードを覆っているようだ。ポットのほうは、茶葉を入れてお茶を出すのに使う。そのために駅や列車の中には必ずお湯の出る設備が設置してある。僕は水代節約のため、このお湯をペットボトルに詰めて飲んでいた。

 甘粛省を横断して陝西省西安に至る快速列車は21時間かかる。切符が売れるのが早い中国、僕はこの21時間を「硬座(yìngzuò インツオ)」と呼ばれる2等座席車で過ごさなければならなかった。
 中国の在来線の列車の一般的な切符は、まず寝台の「臥」と座席の「座」に分けられ、それぞれに硬軟がある4種類。軟臥(ruǎnwò ルアンウォ)といえば一等寝台ということになる。それに加えて、「無座(wúzuò ウーツオ)」という切符もある。無を売るなんていう禅問答みたいなこの切符は、いわゆる立ち席切符だ。運が良ければ乗車後に空席の切符にアップグレードすることもできるが、たいていの場合は車輛の連結部にうずくまったり、段ボールを敷いて胎児のような体位で横になりながら到着までを過ごすことになる。
 硬座はその名のとおり、申し訳程度のクッションのある、背もたれがほとんど垂直な座席で、高速列車などと比べると決して快適ではないのだけど、無座に比べれば百倍はましだった。

▲ウルムチ発連雲港(江蘇省にある港湾都市)行きという、中国をほぼ横断する列車だ

 車内にはたまに、思い出したように中国音楽が流れたりする。聴いているとなんとなく覚えのある旋律だと思っていたら、『それが大事』の中国語カバーだった。中国語圏では意外と日本の歌がたくさんカバーされている。

 西安の駅を出るとすぐに城壁があるので驚く。ここ西安は、古くは周の時代から都となり、唐代には長安として栄えた古都だ。日本の平安京は唐の長安に範をとって造営されたというのはあまりにも有名だ。
 今も変わらず西安は大都市だ。気候はだいぶ過ごしやすくなり、大気汚染もウルムチほどにはひどくないようだ。しかしマスクを外すことはできない。空は相変わらず白っぽいし、道路の向かいはやっぱりなんとなく霞んでいる。
「長安有男兒,二十心已朽」と、唐代の詩人、李賀の詩の一節にある。長安に男児あり、二十にして心すでに朽ちたり。白髪になるのを待つまでもなく、自分の人生は先が知れてしまったのだ……、というような内容があとに続く。これは李賀が科挙を受けさせてもらえずに、失意のまま下級役人として長安にいたころの作だという。李賀は実際白髪になることなく26歳の若さで絶望のうちに亡くなることになったということと、彼の才能の表現として鬼才という言葉が生まれたということだけは、昔ものの本で読んで知っていた。僕の心は23になっても、未来に絶望して朽ちてしまってなどいないはずだ。
 自由旅行をしてきて、行く先に絶望してしまうということがなくなったような気がする。計画を立ててもそのとおりにいくことはほとんどないし、毎日毎日思いどおりにいかないことばかりだ。けれども失敗しても他の道が必ずあるし、行き詰まったと思っても結局はなんとかなってしまうものだ。異国という基本的に理不尽で不条理な場所を、ひとりで動いていく。動いている限りは、心が朽ちていくひまなんてありえない。
 しかし旅行者の中には、安宿に滞留して、何をするでもなく時間だけをいたずらに消費して無為に過ごしているだけの人というのもいる。そういう状態は、旅行者の間では「沈没」と呼ばれている。東南アジアの安宿街などでは、土地の気だるい空気にあてられてしまったのか、町から町へ動いていくことにもう疲れたのか、一日中寝ているか、ぼうっとしているか、ガンジャをやっているかというような、死んだ目の若者に出くわすことがある。僕がほとんどひとつの町に滞留することなしに動き続けてきたのは、あるいは彼らのようになってしまうことへの恐怖からかもしれなかった。幸いにかそうでないかはわからないけど、この旅行には明確な期限があるし、無職生活にも期限がついている。そうでなければ、どうなってしまうか僕にはわからない。

▲地面に水で揮毫するおじいさん。お金を箱に入れようと思ったら、ただの水入れだった

 西安にいられるのも1泊だけということにした。とりあえず有名な秦の始皇帝陵、兵馬俑を見に行こうとして、駅前から「游5路」という路線バスに乗ろうとするのだけど、これがなかなか見つからない。見つからないばかりか、近くの中国人が「兵馬俑か?」と声をかけてきて、どう見ても市バスではない偽の游5路バスに乗せようとしてくる。兵馬俑まで7元(約120円)というから、市バスと値段の上では同じようだけど、怪しいことこの上ない。中国人の観光客も騙されそうになっていたし、実際にバスに乗っている人も何人もいた。彼らはどうなってしまうのだろう? 案外、市バスよりも効率がよかったりするのだろうか。

▲等身大の兵馬俑は非常に精巧に造られている

 兵馬俑のそばの屋台で、当地の料理だという涼麺(liángmiàn リャンミエン)というのを注文した。10元(約170円)だという。おばちゃんが出際よく調理を進める横で、旦那らしい親父が「肉夾饃(ròujiāmó ロウジャーモー)も食うか」と訊いてくる。せっかくなので食べることにする。薄い生地に煮崩した肉が挟まっているというだけの食べ物だ。どこから来たというので、日本からだと言う。「日本人か。中国語がうまいな」と言うのでうれしくなる。

▲涼麺。名前の割に冷たくはない。豆の澱粉から作った麺類をこう呼ぶらしい

 涼麺を食べ終わって、お会計だ、そういえば肉夾饃はいくらなのかなと訊くと、肉夾饃も10元だから合わせて20元だという。「ずいぶん肉夾饃というのは高いですね」正直いってあまりおいしくもなかったし、おいしくてボリュームもあった涼麺と同じ値段がするというのにはどうしても納得がいかなかった。
 親父は「それはその……肉だから高いんだよ」と、歯切れの悪い答え。しかしこれ以上追及しても仕方がない。日本人と答えたせいでぼられたのだとしたら悲しいなと思いつつ、しかし本当に10元なのだとしたら諦めるしかないが、やっぱり高すぎるとも思う。

▲肉夾饃は肉夾餅ともいい、あとで聞いた話だと4元から6元程度が相場だそうだ

 西安市街に戻り、大雁塔を見に行った。大雁塔のある大慈恩寺は、唐代に西域を抜け天竺まで辿り着き、ふたたびこの地に帰還した三蔵法師玄奘が、仏典の漢訳に取り組んだところだという。般若心経のような有名な経文もここで訳されたのだ。
 思えば僕も、玄奘が辿り着いたインドのナーランダー僧院や、砕葉城(スイアーブ)の遺構、火焰山など、三蔵法師の足跡を辿ってここまでやって来た。それは鉄道や自動車に頼った極めて現代的なものだったけど、それゆえにこの長い道のりを徒歩や、あるいは馬や駱駝だけで越えていった古人の凄まじさがわかる。

 シルクロードの中国側の起点、そして終点はここ西安だとされている。もちろん、その終点を日本や朝鮮半島とすることも可能だろうけれど、中国では一般的に西安からがシルクロードだということになっている。だとすれば、僕のシルクロードの旅もまた、ここ西安で終わりを迎えたということになる。なにか感慨めいたものが湧いてくると同時に、なんとなくだけれど何かを失ったような気分にもなってくる。——これからどうしよう。もちろん香港に行くことは決まっているのだけど、どこを通って香港に行くかというのが問題だった。

 本当は、遼寧省から出ている北朝鮮ツアーに参加しようと思っていた。北朝鮮という、いつまであるとも知れぬ国を一度この目で見てみたかったのだ。北朝鮮は自由旅行を受け入れておらず、ツアーでしか入国することができないのだけど、ミサイル問題なんかの情勢の変化によって、今後1か月は日本人とアメリカ人にはビザが下りることはないという回答を旅行会社から得て、それはつまり今回は北朝鮮旅行を諦めなければならないということを意味していた。
 僕は考えた末、福建省のアモイまで一気に行くことにした。

 大雁塔の近くのコンビニで、中国らしい薄味のビールを1缶買って飲み干したあと、近くの食堂でビャンビャン麺というものを食べた。ビャンという字はたいへんに難しく、58画もある。この漢字がビャンビャン麺を有名にしているといってもいい。ビャン(biáng)などという発音じたい、普通話には存在しない音節でますます不思議だ。日本語の音読みはヒョウとかビョウになるだろうか?

▲辶+穴+月+幺+言+幺+長+馬+長+刂+心

 麺はきしめんをもっと太くしたように平たく、幅は5センチ弱もあろうかというもので、つるつるした食感だ。汁はほとんどなく、刻んだ肉や野菜や卵焼きが乗っかっていて、辛めの味付けがされている。名前に頼った色物なのかと思っていたけど、これは土地の名物料理というにふさわしいおいしさだ。西安附近には多くの観光名所があるけれど、僕は全部を見ようとせずに、糖葫蘆(tánghúlù タンフールー)という、日本でいう林檎飴のような山査子の飴掛けを齧りながら、大きな夕陽が沈んでいく西安の街をゆっくりと歩くことにした。シルクロードは終わったのだ。

▲糖葫蘆。くっついているナッツのようなものはおそらくひまわりの種

▲夜にはライトアップされる鐘楼

前回 第41日・中国、敦煌

次回 第46日・中国、廈門と福建土楼

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