第32日・タジキスタン、ホジャンド
フェルガナ盆地の南、タジキスタン北部ソグド州に入ると、空気はなぜだか煙がかかったように白く霞んでいた。雪を頂いた高峰が彼方にそびえているのが薄ぼんやりと見えるが、残念なことにどこまでいっても薄ぼんやりであった。
▲タシケントのラグマン。焼きうどんだ
砂埃舞うタシケントの新市街はとにかくだだっ広く、ソヴィエト的計画都市という印象だ。朝9時前からタジキスタン大使館に並んで、パスポートと申請書類を提出して向かいのチャイハナで午後3時過ぎまで待機する(パスポートがなければ地下鉄にも乗れないし、警官に誰何されたら身分証不携帯で連行されてしまう)、というのはひどく退屈なように思われたけれど、チャイハナではタジク人のおばさんがひたすら家族の写真や動画を見せてきてくれたので、それほど時間潰しに困ることもなかった。タジク人はイラン系で、ペルシア語の一種であるタジク語を話すアーリア系人種だ。おばさんもコーカソイドらしい彫りの深くはっきりした目鼻立ちをしていた。
ビザに関しては、料金が「フィフティーン」と言われていたのに、15ドル出すと「違う、フィフティーンだ」と結局フィフティー、50ドルだったこと以外は特にトラブルもなかった。中央アジアではfifteenとfiftyを取り違えている人が本当に多かった。アクセント位置から考えても、明らかにフィフティーンと発音しているのだけど、彼らは間違いを認めないので、「ピトナーッツァチ(15)?」とか、さらにだめ押しで「アジーン、ピャーチ(1、5)?」と、事前に確認するしかない。50はロシア語ではピッヅィスャートという。
▲タシケントのナヴォイ劇場。戦後ソ連に抑留された旧日本兵らが苛酷な強制労働の末に造り上げた劇場の前で、カップルが愛を育んでいる
タシケントの宿「トプチャン・ホステル」(ここも1泊8ドルと安く快適で素晴らしい宿だ)には『ロンリー・プラネット』が置いてあったので、それを熟読して重要なページは写真も撮っておいたおかげで、タジキスタンへの国境越えにはなんの不便もなかった。
行程は極めてシンプルで、タシケント新市街南部、クイルク・バザールからバスで1時間半ほどかけてオイベク国境に至り、そこからタクシーでホジャンドへまた1時間、というものだ。ウズベキスタンの税関職員が暇潰しのためか僕の荷物の中身を全部机の上に出してしまったこと以外には面倒ごともなく、徒歩で越える国境には両替のできる商店もあったので、僕は余っていたスムの札束をタジキスタン・ソモニに替えてしまうことができた。90万スムが78ソモニになったのだけど、1ドルが8ソモニ程度になるはずなので、ドル換算だとウズベキスタン国内の闇市場よりもずっとスムの価値が低くなっている計算だ。とはいえ、自国民さえほしがらないウズベキスタン・スムを他の通貨に替えてくれることには文句は言えない。
フロントガラスがひび割れている白タクの運転手氏によると、タジク語で「よい」はイランと同じく「フーブ」、ありがとうはラフマット、さようならはハイルというらしい。ラフマットというのはウズベク語など周辺のトルコ系言語と同じ言葉なので、ペルシア語系といっても相当淆ざっているみたいだ。
赤い星のついたソ連時代の顕彰碑がたまに建つほかは、さびれた村がたまにある程度の雪積もる荒野を抜けて、タクシーはホジャンド市内、パンシャンべ・バザールの前に到着した。なおパンシャンべは木曜という意味だ。『ロンプラ』を見て決めていた宿「シャルク」はこのバザールの建物の最上階にある。ドミトリー1泊15ソモニ、日本円にすると2百円台という破格の安さだ。そのかわりシャワーなどはついていないし、暖房もなければ、トイレには便器の間に仕切りがあるだけでドアはない。コンセントはあるので充電ができるのが唯一の救いだ。
なお中央アジアでは、ドミトリーといっても二段ベッドではなく、基本的には普通のベッドが並んでいるだけの相部屋なのでわりあい過ごしやすい。
▲パンシャンべ・バザール
「シャルク」はあまりくつろげる宿ではないので、外に出てバザールでご飯を食べ、物価感覚を摑もうとしてみる。シャシリクは1本3〜4ソモニ(約40〜60円)。適当に注文したら出てきたのはどうやら羊のレバーだ。レアに焼いたレバーはおいしいけれどなんとなく不安な気分にもなる。
適当にぶらぶらと歩いていると、道ばたで地元の人々から声をかけられる。どこから来た、タジキスタンはどうだ、俺の写真を撮ってくれ、一緒に写真を撮ってくれ、……。同じようなことがどこかでもあったなと考えてみると、なるほどこれはイランだ。イランと同じく赤・白・緑の国旗はためくこの国は、すくなくともこのホジャンドにあっては、言語や容貌のみならず気質までもイランと似ているらしい。いまのところはそういう印象だ。
レーニン像というのがあると『ロンプラ』にあったので、なんとなくその方向に歩いていると、また道ばたから声をかけられて、ダヴァーイ、こっちに来いと言う。「俺たちはそこで電器屋をやってんだ、見ていってくれよ」なんて言うので、さすがに旅行者に洗濯機やテレビを売りつけてくることもないだろうと、僕は彼らの招きに応じることにした。
▲電器屋
「シャープは日本製で、あとはパナソニックとサンヨーと日立と東芝も日本だよな! うちは日本製品も扱っているんだ」と彼らは言ってくれるけど、店を見渡すと、テレビも洗濯機もどうしてもメインはLGだし、シャープと言って指差したテレビには、鍍金のはがれかけた大柄な文字で「SARP」とロゴが書いてある。ちゃんとしたパナソニックのテレビもあったことは一応付け加えておく。
歳はいくつだ、22です、嫁はいるのか、まだいません、なぜいないんだ、さあ自分でもわかりません……。「タジキスタンで嫁を取れ!」と言うのにはさすがに笑ってしまった。店には彼の娘だという若い女の人がいて、実のところかなりの美人だったので、存外ありかもななんて思ってしまう。
会話はロシア語で、僕のロシア語には圧倒的に語彙が足りていないので、たまに知っている単語を拾ったり、ひたすらハラショーと繰り返したりしているのだけど、なんだかんだこうして地元の人と喋っていると、その国に直に触れているという感じがして、これこそ自由旅行の醍醐味という感がある。
ウズベキスタンではヒヴァやブハラやサマルカンドに行ったという話をすると、「ブハラもサマルカンドもウズベキスタンに奪われたんだ」と言う。両都市とも元来はタジク人の町で、今でもウズベキスタンよりタジキスタンのほうに親近感をもつ住民も多いんだ、と別の旅行者に聞いた。
このあたりの国境は複雑に入り組んでいる。何々スタンという国名は、何々人の国、という意味だけれど、国境と民族の境界は必ずしも一致していない。それでは国境を引き直せばよいかというとそういう単純な話でもなく、どの町にもさまざまな民族が集まって暮らしているのである。シェンゲン協定は彼らにこそ必要ではないかと思う。
電器店の人々は僕に店のパンフレット(といっても、家族の紹介や家族旅行の写真なんかが載っている、宣伝効果がまったく謎の代物である)と、なぜか頭皮マッサージ器をくれて、5時半になったらまたここに来いと言う。このやけに気持ちいい頭皮マッサージ器をくれた意味は全くわからないけど、とりあえず店を出た。
▲パンシャンべ・バザール前の広場
ホジャンドの人々は本当によく話しかけてくる。大抵ははじめに「キターイか、カリェーヤか?」とくる。カリェーヤが韓国のことなのはわかりやすいが、一方中国を指す言葉がキターイなのは多少不思議に思われると思う。この妙ちくりんな呼称は、あの耶律阿保機(やりつあぼき)の契丹からきているのである。ロシアと中国の旧い歴史的な関係から来ているとはいえ、異民族の名で呼ばれるのは中国人からしても奇妙だろうと思う。
ソヴィエトの顕彰碑が建つ公園を歩いていると、二人組の若い男が話しかけてきて、タジキスタンはどうかとか、いつまでいるのかとか訊いてくる。彼らは僕が歩く横にずっとついてきて、歩きながら話していたのだけれど、突然「クスクスは好きか? クスクスするか?」と片方の男が訊いてきた。
「クスクスって何?」
「クスクスはクスクスさ! あそこにホテルがあるだろう」
「クスクスはホテルのこと?」
「違う、クスクスはクスクスだよ! ほら言ってみろ、クス・クス」
このあたりでもう片方の男が腹を抱えて爆笑しだしたので、僕もなんとなく、クスクスが何らかのど下ネタなのだろうということはわかりはじめていた。結局正確な意味は知らないけど、クスクスはしません。
▲いかにもソヴィエト的な顕彰碑
そういえば、イランではコスケシュというのがいわゆるFワードであるようだった。ある男にイランで撮った写真を見せてくれと言われてカメラのプレビューを回していたとき、モスクの写真が出たところで彼が「コスケシュ・ハーネ」と言ってまわりの若者たちと笑ったのが印象に残っている。ハーネというのは家とか、何々屋、何々所という意味合いの言葉で、チャーイハーネといえば茶屋のことである。モスクをコスケシュ・ハーネと言ってしまうことが、少なくともある若者たちの間では受け入れられるというのが、イランの多面性のひとつであるようだった。
▲クスクスブラザーズ
コスケシュと同系であろうクスクスの若者らと別れ、エメラルド色をしたシルダリヤ川を渡ると、レーニン像は巨大なイスマーイール・サーマーニーの像に建て替わってしまっていた。大学生くらいの男女が4人いて、日本人だと僕が言うと英語で「じゃあアニメは観る?」と言う。実のところ僕はアニメよりも漫画を読むほうなのだけど、「多少観るよ」と言うと、「僕もアニメを観るんだ! ナルトとかフェアリー・テイルとか……」と言う。きっとユーチューブなんかでただで観られるので、ここタジキスタンでも日本のアニメが知られているのだろう。名前を訊くと「ナルトの息子、ボルトだよ」なんて冗談を言っていた。
▲ボルト(本名はムハンマド)たちとイスマーイール・サーマーニー像
▲イスマーイール・サーマーニー像の脇にあったモザイク画。ブハラでバカップルに悩まされたイスマーイール・サーマーニー廟だ
5時半になり、電器屋に戻ると、店のテレビで映画を観ていた彼らは僕と握手して、それじゃあ行こうと車を出してくる。一般的に言って、よく知らない人の車に乗るというのはあまり思慮深い行動とはいえないし、外国ではなおさらだ。ただ僕は彼らについて行くことを選んだ。それは根拠というにはあまりに脆弱な、たぶん大丈夫だろうという勘のようなものでしかなかったけど、一方で僕は、まあこれで死ぬなら自分はそれまでの男だ、といつも思っているようなところがたしかにあった。
トヨタの車(ロシア語圏ではロシア語の音韻規則に従ってタヨータと呼ばれている)は町外れの居酒屋のようなところに着いた。飯を食おうと言う。「こいつは日本から来たんだ!」と飲み仲間に紹介しているらしく、鶏のシャシリクや、おそらくシルダリヤ川の魚の干物、丸くて硬く塩辛いチーズなんかをビールと一緒におごってくれた。
▲魚の干物。生臭く塩辛いけど、ビールには合う
そういえば、あの美人の娘さんは居酒屋にはついてこなかった。居酒屋にいるのは男性ばかりである。イランからここまで、男女の生活圏というのは、少なくともある世代以上では明確に分かれているようだ。イスマーイール・サーマーニー像の前にいた男女の4人組はおそらくは例外だ。
彼らはビールのあとはチャイを飲んで、車で僕を送ってくれた。飲酒運転は大丈夫なのか? と思っていたら、「すまん、警察いるからここからは俺の甥に歩いて送らせるわ」とのこと。うちに泊まらないかと言ってくれたが、もう宿を取ってしまっていたので断ってしまった。一銭も要求されることはなかった。
『深夜特急』で有名な沢木耕太郎は、あるエッセイの中でこう書いている。「異国には旅が向こうから迫ってくる土地とこちらから向かっていかなければならない土地とがある」。正確に引用できるのは僕が成田にバスで向かう直前、東京駅の三省堂書店で『深夜特急ノート 旅する力』を買って持ってきているからだ。インドは明らかに前者であり、もし日本を眺めるならばきっと後者だろう。イランはやっぱり前者で、ウズベキスタンは両者の中間という感じだ。タジキスタンは僕にとっては、イラン以上に「旅が向こうから迫ってくる」場所だった。ホジャンドは、10世紀のものという城壁の遺骸が残る以外は何もない町だ。けれども今やこの町は僕にとってはそのへんの観光都市よりも印象深い。物見遊山だけが旅行ではないのだ。
▲10世紀の城壁
▲警察署か何かだろうか。大統領の肖像が飾られている
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