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南方熊楠門下のキノコ四天王・樫山嘉一の年譜が収録された『樫山嘉一小傳』(熊野郷土科学叢書)

 樫山嘉一は南方熊楠から植物学、民俗学で教えを受けた人物であり、「キノコ四天王」の一人として知られている。樫山の経歴はWeb上では情報がないので気になっていたが、先日、日本の古本屋で熊野郷土科学研究会編『樫山嘉一小傳』(熊野郷土科学双書第3集、1963年)という樫山の評伝を発見して購入した。この本は国会図書館に所蔵されておらず、田辺市立図書館など和歌山県内の一部の図書館にしか所蔵されていない。珍しい本であるようなので、以下に書影と目次を紹介しておきたい。

書名:熊野郷土科学双書第3集 樫山嘉一小傳
大きさ:約24.8cm×約17.7cm
編者:樫山茂樹 ※樫山嘉一長男
発行:熊野郷土科学研究会編
頁数:113頁

はしがき
編者のことば
第1部 ヤツシロの巻(生前)
樫山嘉一 その横顔 本田正次
樫山嘉一翁 雑賀貞次郎
虫癭喜寿の祝 岡本清造
真面目一語 浜田稔
芳翰録
 1.旧師遺芳 南方熊楠先生 山本増市先生 門前弘多先生
 2.昭和37年の芳信 ①松村義敏 ②田中敬忠 ③小田由一 ④松井麗子   
   ⑤榎本暁 ⑥栗山平七郎 ⑦本田正次 ⑧今村駿一郎 ⑨久世正富   
   ⑩芝田珠堂 他
 3.昭和38年の年賀状
   中平解 佐藤清明 菅谷貞男 室井悼 槌賀安平 渋沢敬三 九十九  
   豊勝 他
樫山嘉一抄
 1.弾正法師(『旅と伝説』昭和5年6月1日発表)
 2.珍しい桜の話(『紀伊新報』昭和16年2月14日)
師としての父 樫山嘉一
カシヤマランの発見
第2部 オカフジの巻(没後)
弔辞 上富田町教育長他
御弔電 和歌山県知事他
弔問
弔電話
弔詞
弔翰録
うめくさ 父の面影 樫山茂樹
樫山嘉一紹介記
 1.紀州のおかいさん(『草木春秋』(石崎書店、昭和28年)、『旅行風 
   景』第6号(昭和28年)) 本田正次
 2.田辺地方の生物研究家について(西牟婁理科誌) 太田耕次郎
 3.隠れたる植物学の研究者 樫山嘉一氏 紀伊新報(大正14年9月13 
   日)
樫山翁逝く(『紀州政経新聞』昭和36年5月21日) 雑賀貞次郎
樫翁偲記 真砂光男
落葉先生13話—ある郷土研究家の生涯― 無名仙人
樫山翁の台詞録 編集部
父の最後 樫山茂樹
樫山嘉一年譜
索引に兼ねて小誌贈呈芳名録
あとがき

表紙

「編集のことば」によれば、第1部を嘉一の喜寿記念に出版しようとしていたが、嘉一が亡くなったので死後に届いた原稿を第2部として合わせて出版したという。この本は嘉一という地域で活動していた在野研究者の記録として、また、民俗学史的に興味深い内容が多い。これらは後日紹介するとして、今回はこの本に掲載されている年譜から嘉一の経歴を以下に抜き書きしておきたい。

明治21年
5月13日 和歌山県西牟婁郡岩田村大字岡501番地に誕生
明治28年
4月2日 同村岡尋常小学校入学
明治32年
4月2日 同村岩田尋常小学校高等科に入学
明治35年
3月25日 同校を卒業
明治37年
12月1日 岡小学校代用教員として採用。この間に郡立準教員強制所を首席卒業。
明治38年
7月13日 準訓導の辞令
明治39年
9月15日 岩田小学校勤務。(尋常課の正教員)校長の宇井縫蔵に紀州植物の指導を受ける。
明治43年
3月6日 朝来帰小学校勤務
明治45年
1月5日 谷本まつの(21歳)と結婚
3月31日 上芳養校首席訓導
大正2年
8月 南方熊楠に初面会(紹介なし)
大正3年
5月30日 ヤツシロラン発見
大正4年
4月1日 伏蒐野小学校校長
大正6年
4月1日 和深小学校比曽原分校主任(同小学校次席)
大正7年
9月1日 長男茂樹誕生
大正9年
4月1日 栗栖川第二小学校校長
大正9年
8月6日 高野、北陸、関東旅行。高野で牧野富太郎の指導を受ける。
大正12年
4月1日 大内川小学校校長
大正15年
4月1日 三川第二小学校校長
昭和2年
3月31日 退職。以後一切の職につかず農民生活。
昭和4年
6月1日 南紀行幸時にヤツシロランの天覧を賜る。
昭和11年
7月1日 柳田国男が藁葺の生家を『旅と伝説』の口絵写真にする。
昭和17年
1月1日 『ヤカミランについて』を印刷
昭和19年
4月12日 『木の国の農家の虫癭採集』を印刷
昭和22年
4月16日 『紀伊虫癭目録』を印刷
9月28日 『記念の木』を印刷
昭和23年
2月11日 文化功労者として知事表彰を受ける。
7月16日 日本民俗学研究所の直江広治を田中神社に案内する。
7月17日 『紀伊の農家』を印刷
12月29日 『地下菌』を印刷
昭和25年
3月30日 『モチとダンゴ』を印刷
昭和26年
4月6日 白浜駅に義宮殿下を奉迎
11月24日 『虫癭日記』を印刷
昭和27年
9月27日 『科学迫害史資料』を印刷
昭和29年
5月22日 『ネオニユロテラス』を印刷。
クスギハナワタフシから新属新種の虫癭昆虫を発見。クヌギハナフシバチ(Neoneuvotevus Kashiyamai Monzen)と学名の中に名前が入れられる。
7月4日 『イスノキとイスフシ』を印刷
昭和32年
6月22日 『スケロクラン』を印刷
10月31日 『マツタケシラベ』を印刷
昭和33年
2月11日 『レカノルキス』を印刷
昭和34年
7月10日 九十九豊勝を白浜に迎えて一泊
昭和38年
3月3日 このころ起居が不自由になる。
5月19日 死去

 嘉一は、教員、農家として働きながら虫癭昆虫(植物に寄生する昆虫)の新種を発見するなど植物や昆虫の研究をメインに行っていたことが分かった。上記の年譜の中で登場する宇井縫蔵は植物研究者として知られており、牧野富太郎と熊楠を仲介した人物として知られている。(牧野と熊楠は実際に会ったことはなく、書簡のやり取りのみであったが、それを仲介した。)嘉一は宇井の弟子であったようである。興味深いのは、嘉一が多数の私家版の冊子を発行している点であるが、これらの冊子はどこかに所蔵されているのだろうか。

 個人的に驚いたのは、拙noteでも紹介したことのある性に関する民俗を中心に蒐集していた九十九豊勝と嘉一が交流のあった点である。これに関しては、別の記事で取り上げたいと考えている。


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