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資料は取捨選択されるべきなのか?―柳田国男 vs 渋沢敬三

 本日は柳田国男の誕生日であるとのことなので久しぶりに柳田関連の記事を投稿していきたい。また、これは私の最近考える機会のあった歴史資料の取り扱いに関して先人の考え方を整理する意味合いもある。

 ともに現在の民俗学の基礎をつくった柳田国男と渋沢敬三だが、民俗学の資料の取り扱い方に関する考え方は大きく異なっていた。その違いがよく分かる文章を『柳田國男対談集』(筑摩叢書)の中の柳田と家永三郎との対談「日本歴史閑談」から引用してみよう。

柳田 この頃、新聞に出ておったのは間違いなんですねどね。文部省にはそういう運動があるのですね。資料の散佚(さんいつ)を防ぐ。今いろいろなものの下張りなんかにどんどん使われるものですから、あれを非常に高く見ているのですが、私はそんなことをいうと、経済史学の人たちから憎まれるかもしれないけれど、たくさんある資料のうちの一部しかほんとうは必要がないんじゃないかしらと思っているのです。(中略)私はどうもあれもあまり豊富に過ぎたことが日本の学問がトリビアリズムといっていいか、細かいことへ入ってゆく癖を生じて、そうして全体を見るような力を弱めたりなんかしたんじゃないか、とむしろ思っているのです。           (家永の発言の後に)                        柳田 経済史学をやっております人はね、私から遠慮のない批評をさせると、実は資料を誇張しすぎるんです。(中略)史学の資料の保存をやってくれても伊豆のある漁師の網主の家から出た資料だけでも、こんな五百項もある菊版の本が二冊出ているのですから(中略)一方では標準を立てて、こういう資料は持ってきてもいい。襖の下張りになっても、林檎の袋になってもいい。その代りこれだけは大事だから捨てちゃいけないということを力を入れて説くようにしたいと思うのですね。(後略)(筆者が重要であると考える部分を太字にした。)

簡単に言うと、資料の取捨選択は特定の判断基準を立ておこなうべきであると柳田は考えていた。この発言は、明らかに渋沢や彼の主宰していた日本常民文化研究所の方針を批判したものである。渋沢は、豆州内浦(伊豆)に住んでいた大川四郎左衛門の家から多くの古文書を発見して、『豆州内浦漁民資料』として出版していた。渋沢はこの資料の出版した理由を次のように述べている。

論文を書くのではない。資料を学会に提供するのである。山から鉱石を掘り出し、これを選鉱して品位を高め、焼いて鍰(からみ)を取り去って粗銅とするのが本書の目的である。これを更にコンバーターに入れ純銅を採り、また圧延して電気銅を取り、或いは棒に或いは板に、或いは線にすることは我々の仕事ではない。原文書を整理して他日学者の用に供し得る形にすることが自分の目的なのである。しかして学者の用たる、目的により、種類により、時代により、研究の視野・角度の変化により、今から何が一番価値があり何が全く無駄であり屑であるかは予想し得ない。(後略)(『豆州内浦漁民資料』の「序」より。引用元は『渋沢敬三 小さき民へのまなざし』川島秀一編。)(筆者が重要であると考える部分を太字にした。)

渋沢は、将来的に何が必要になるかは判断できないため、特定の判断基準を立てず資料をできる限り将来の研究のために今ある資料を残すべきであると考えていた。柳田は上記のような渋沢の考えを意識して、家永との対談で渋沢に対して批判的な発言をしたのだろう。

 後の歴史研究の展開をみてみると、「襖の下張りになってもいい」、「林檎の袋になってもいい」と柳田が言った資料の中から重要な資料が発見された。中世社会史の研究者・網野善彦と思想家・鶴見俊輔の対談『歴史の話』の中で、網野が能登の「時国家」の調査で襖の下張りになっていた文書から重要な文章が発見されたと述べている。網野によると、この文章により今まで豪農だと考えられていた「時国家」が大商人でもあったことが分かったという。現代の私たちからみてみると、結果的に、渋沢の資料に対する考え方の方が正しかったようにみえる。

 では、柳田の資料は取捨選択すべきであるという考え方はどのような問題関心から来ているのだろうか?柳田は様々なテキストで使おうとしている資料が玉石混交であることを述べている。この中には、柳田から見て明らかに粗雑な資料が多く含まれ、それに基づいた歴史が信じられている場合も多かったため、まずはそれらを「選別」したいという問題意識が柳田の中で強かったのではないか。

 また、より大きな違いは柳田と渋沢の目指していた民俗学の方向性にもあるのではないかと考えている。以前投稿した下記の記事でも述べたように、柳田は、どちらかと言うと、現在の人々の問題を解決するための学問として民俗学を考えていた。言い換えると、柳田にとって民俗学は近い将来に利用できる学問でなければならなかった。一方で、渋沢にとって民俗学は未完成の学問であり将来の研究者たちによって発展すべきものであった。ここからは私の推測になるが、人々の問題を解決するための民俗学を目指してあせっていた柳田には、上記に引用した渋沢の立場が悠長に見えたのではないだろうか?

 ちなみに、私は、あまり注目されていない人や出来事を考えていきたいので、渋沢の立場を支持したい。捨てたものの中に重要なことがある可能性を捨てきれないからである。(この立場は鶴見俊輔のらっきょうの詩を思い出す。)しかしながら、柳田の考えは当時の問題関心に沿っているため、現在の立場から一方的に批判することはできないと考える。


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