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意外な同級生―鶴見俊輔と近角常観の息子

 鶴見俊輔は、祖父に国家官僚・政治家の後藤新平、父に作家・政治家の鶴見祐輔を持ち、華族出身であることが知られている。華族であるため、当然良い小学校に通っていた。『鶴見俊輔伝』黒川創によると、1929年に鶴見俊輔は、東京高等師範学校付属小学校に入学している。同学年に嶋中鵬二(後に中央公論社社長で父は同じく中央公論社社長・嶋中雄作)、永井道雄(後の文部大臣で父は政治家・永井柳太郎)、中井英夫(作家で父は植物学者・中井猛之進)がいた。嶋中鵬二と永井道雄は鶴見俊輔と同じクラスであり、中井英夫は別のクラスであったようだ。

 彼らに関しては、鶴見俊輔の多くの文章で触れられているため知られているが、彼らに比べて親しい交流がなかったためかほとんど触れられていない意外な同級生もいる。彼の著作である『隣人記』の中に収録されている「空想の場のひろさ」という文章で、彼の中学時代の同級生に関して以下のような記述をみつけた。

おたがいに十四歳だったころおなじ教室にいた友人が、その後六十年近く会ったことがないのに本をおくってくれた。(中略)著者は、ロゲルギストと名のる物理学の雑談会のメンバーで、このグループから『物理学の散歩道』、『新物理の散歩道』上、下二巻がある。(中略)著者の近角聡信(ちかずみそうしん)は、お寺にうまれてそだち、戦時下の仏教についての苦い記憶をたもちながら、戦後の現在、仏教への信仰を深めている。(後略)

 ウェブで調べてみると、近角聡信は物理学者で大正時代に活躍した宗教家・近角常観(じょうかん)の息子であるようだ。近角常観の息子と鶴見俊輔が中学時代に同級生だったのがおもしろい。問題はどこの中学であるかということだが、ウェブで調べてみても近角聡信の経歴は第二高等学校以前の経歴は分からなかった。(注1)『鶴見俊輔伝』黒川創の年譜によると、鶴見は13歳(1935年)の4月に府立高等学校尋常科に入学して、14歳のとき(1936年)の7月に同校を退学している。同年9月に府立第五中学校2年生に編入するが、翌年7月に退学してしまう。上記に引用した鶴見の文章から推測するのであれば、「十四歳だったころ」と表現されていることから、おそらく府立第五中学校ではないであろうか。近角聡信の経歴も確認したいところだ。

 鶴見の文章に近角聡信のことがほとんど出てこない理由は、つきあいの深さだけではないだろう。私は鶴見にとって苦しい時期であったこともあるのではないかと考える。この時期の鶴見は、うつに近い状態にあり自殺未遂をくり返すなど精神的に不安定であった。私は鶴見の文章は多く読んできたつもりだったが、このエピソードは『隣人記』を読んで今回はじめて知った。

(注1)国会図書館のデジタルコレクションで調べると、1941年に『農村協力の体験』という第二高等学校で発行された文集に、近角聡信の文章が掲載されているのが確認できた。この文章によると、当時、近角聡信は第二高等学校の理科2年に在学している。

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