見出し画像

詩人・鶴見俊輔の「らっきょうの歌」

猿が らっきょうを
むいている
皮・皮
皮の山

うずたかい山に うもれて
一心に むきつづける
彼に むくいられる時は来るか

皮・皮 嘘の皮
嘘の皮が 真実でないと
誰が 言えよう

むきすてられた皮が
私をおしつつむ時が 来ないと
誰が 言えよう

「らっきょうの歌」(『鶴見俊輔集8 私の地平線の上に』より)

 鶴見俊輔は哲学者・思想家・評論家のいずれかの肩書で取り上げられることが多い。あまり知られていないかもしれないが、鶴見は生涯を通じて詩を読み、書いていた。少ししか鶴見の詩を読んだことがない中で紹介するのは気がひけるが、上の「らっきょうの歌」は私が好きな鶴見の詩だ。

 私たちは日常生活を送る中で、直面するものごとを自分の中のものさしに基づいて判断を行っている。ときには、ある明確な基準に基づいて、真実・嘘を判断することもあるだろう。しかし、そこで「嘘」と判断したものは本当に「嘘」なのだろうか?「嘘」と判断した中に、自分にとって重要なものがまぎれ込んでいる可能性は本当にないのだろうか?そもそも、「嘘」と判断する根拠になった基準は本当に正しいのだろうか?私はこの詩を読むと、このようなことを考えたくなってしまう。

「一心に むきつづける 彼に むくいられる時は来るか」には、ひとつの判断基準を過信することへの懐疑、捨てられた皮が「私をおしつつむ時が 来ないと 誰が 言えよう」には、過去の体験やできごとを「未完」であると考えた鶴見の思想が表現されていると思う。

 私はこの詩を読むと、宮本常一の『民俗学の旅』に書かれた以下のことばを思い出す。

人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

 これは宮本が故郷の周防大島を旅立つ際に、父から贈られたことばのひとつだ。宮本はこのことばを大切にして、高度経済成長期に入りつつあった当時の日本の社会で、「見のこされた」地方の人々の生活の苦しさを訴え続けた。鶴見の詩は自分に対して反省をせまるが、宮本のことばは、他のひとが嘘・重要でないと判断したものに対して見直しをせまる。

この記事が参加している募集

#おうち時間を工夫で楽しく

95,507件

よろしければサポートをよろしくお願いいたします。サポートは、研究や調査を進める際に必要な資料、書籍、論文の購入費用にさせていただきます。