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小林啓一「ぼんとリンちゃん」

戯言。ゆえの至言。悩み、苦しみ、激昂して、若さは弾ける。解決はしない。なぜならその迷走はきっとまだ人生の入り口であるからだ。
「アナルは出口じゃないよ、入り口だよ」
私は私、他人は他人。心を痛めながら、そのことを理解するだろう終盤の話し合いは苛烈を極める。誰かとわかり合うことはぶつかり合うこと。
「ハートがくそ痛てえ」
いつか終わりを迎える今を思うことは絶望的。
「とりあえず笑っとこう」
誰かを思うことの楽しさと、誰かを勝手に決めてしまう辛さと、いつか終わりを迎える今に対する漠然とした不安。若さだ。
揺れるキャメラ。揺れる思い。誰かを思う時間は安寧など遥か遠くで楽しさと苦しさとが同居する。
それゆえに彼氏からDVを受けているらしい消えた友達を探す東京の旅路は未知の体験、未知の冒険でもある。痛みとともに誰かのなかに分け入ってきっと見つかるものがある。
彼女たちは傷つき、傷つけ合いながら、馴れ合いではない大切な関係を手に入れるのかもしれない。
自らを傷つけずにぬくぬくとした若さを謳歌した成れの果てが劇中にはずっと存在している。映画はそれを糾弾しないけれど、その醜悪さを描き続けている。
BL大好きなぼんちゃんとその弟分であるリンちゃんの二人はきっとまだその手前で、物語の中の言葉を使うならば、まだ自分の言葉を手に入れてない途上の存在だろう。
ゆえに素人童貞オタクのベビちゃんと、ついに探し当てた消えた友人・みゆちゃんの存在はぼんちゃんとリンちゃんの好対照な生き方として光を放つ。
あえて言えば彼らは「大人」だ。ぼんちゃんとリンちゃんはまだ「若者」なのである。多弁なぼんちゃんと寡黙なリンちゃんのコンビ。
多くの言葉が物語のなかで流れていくけれど、実際に彼らの旅にそれが役に立つことはない。そのことはぼんちゃんとリンちゃんの道程を否定するものではなく、むしろベビちゃんとみゆちゃんたちがそうであるように、他人の言葉など結局は他人の言葉なのだという当たり前の事実を突きつけるかもしれない。
たとえ本人が誰かの言葉を自分のものにしたとしても、誰かの言葉はやっぱり誰かの言葉なのだ。自分の人生を獲得するのは自分だけである。あるいは自分の人生を喪失するのもまた自分だけなのだ。
個人は個人。誰もが誰かの心配も焦燥もできるし、言葉をかけることも寄り添い合うこともできる。しかしそれをどう受け取るか、まさしくこの作品をどう受け取るか、その意味を見出だすのは投げかけられた個人だけ。
これはひとつの衝突である。相手を思うゆえにぶつかり合う個人と個人。受ける相手も攻める相手も交互に代わる。恐る恐る互いの肌に触れるように、言葉を使って心に触れる試み。その試みには正解もなければ正義もない。あるいは意味もない。やおい。
人のふれあいは十人十色。いや、ぼんちゃんとリンちゃん、ベビちゃんとみゆちゃん、四人四色。色の違いを描き分け、それが交わる瞬間をとどめた会話劇に拍手。

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