今野哲夫

伊豆市の内科、小児科開業医です。 物理学、化学、数学を中心に自分のオリジナル新説や考え…

今野哲夫

伊豆市の内科、小児科開業医です。 物理学、化学、数学を中心に自分のオリジナル新説や考えを書いています。 筆者へのご意見を是非お寄せください。

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  • 満州語と日本語

  • 私の物理学

    実験設備がないので紙と鉛筆の世界。物理学の仮説集です。

  • 今野の新資本論

    19世紀半ば、マルクスはロンドンの資本主義を分析した。これは画期的な研究だった。しかし非常に難解な文章でもあった。またこの大研究が現代の東京に当てはまるものなのか。私は無関心ではいられない。21世紀の日本を見つめつつ資本主義のあり方と今後の行く末を考察してみたものである。

  • 私の言語学

  • 私の経済学

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波と粒の二重性を解くモデルは面である

波は同時に同一座標を占める(干渉)ことができ、粒は同時に同一座標に存在しようとすれば衝突してしまいそれができない。この矛盾する特徴を同時に成り立たせるモデルが面である。(二次元現象) 面Aと面Bは交線(一次元)を共有できる。この交線はAとBの性質を併せ持つことができる。一方面と面は衝突(反発)もできる。おそらく面どうしが共存できる場合と反発する場合の違いというのは面のスピンの方向性と大きさの問題だろう。 面上の波動は当然足し算できる。 ガウスの法則型のモデルは半径rの地点での

    • 佐渡の金山は相川という地にある。 これをアイセンと読めば、満語のaisinと同じことだろう。 日本の沿岸地名には浦というのがとても多い。 満語ではulaは河川の意。 これが日本列島では水辺の意に転じたのだろう。

      • 満州語の否定文 動詞〜aku これは日本語の 動詞〜az に相当するだろう。

        • 物質と物体の違い

          物質と物体の違い これは、名詞としてのことばの違いとしか言えないが、何に対する命名あるいは呼び名なのかという疑問だろう。 簡単に言えば物体とは質量のあるモノ(存在)である。 では質量とは何か。あるモノが観測者と同一の慣性系にある場合、その相対位置を変化させようとする場合、仕事をしなければならないならば、そのモノには質量があるという。仕事をしなくていいならば質量は0である。これは物体ではない。 同一の慣性系にあるというのは共に一緒に動くか止まっている場合出あり、相対位置が時間で

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        波と粒の二重性を解くモデルは面である

        • 佐渡の金山は相川という地にある。 これをアイセンと読めば、満語のaisinと同じことだろう。 日本の沿岸地名には浦というのがとても多い。 満語ではulaは河川の意。 これが日本列島では水辺の意に転じたのだろう。

        • 満州語の否定文 動詞〜aku これは日本語の 動詞〜az に相当するだろう。

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        記事

          資本主義はどのように崩壊するのか

                    通貨価値の喪失論           農業を棄てた民の罰           産業革命以降の大失策 マルクスが活動した19世紀のイギリスは資本主義が最盛期でありとてもその限界を迎えるとは一般人は考えなかっただろう。  イギリスで始まったとされる産業革命の18~19世紀は人類史の秩序に異常事態をもたらした時代であった。そして次の20世紀を戦争の時代にした。  またこの産業革命は農業軽視、農業放棄の歴史的大失敗だった。  マルクスは資本主義が発達しすぎれば剰余

          資本主義はどのように崩壊するのか

          自由主義という幻想

           最近はあまり聴かなくなったが、かつては経済体制に関し、対比的に自由主義陣営と社会主義陣営という言い方をしばしば目にしたものだ。ただ、それは常に、何をもって自由主義といい、何をもって社会主義といっているのか、定義めいたものを伴っていなかった。  日本は自由主義の国ということになっていたようだが、私には何が自由なのか理解できなかった。  自由主義は資本主義や民主主義とセットで、あるいは混用されるようにも用いられたことばである。  ここでは経済に関する自由について限定して述べる。

          自由主義という幻想

          日本では1980年頃までは専業農家や中小企業が元気で生産者と投資者が比較的に同じエリアで共存していた。 つまり実は共産主義的生産体制に近かったので、うまくいっていた。 しかし、80年代中頃に英米に見咎められて独占資本主義化されてしまい崩壊コースに乗せられてしまった。

          日本では1980年頃までは専業農家や中小企業が元気で生産者と投資者が比較的に同じエリアで共存していた。 つまり実は共産主義的生産体制に近かったので、うまくいっていた。 しかし、80年代中頃に英米に見咎められて独占資本主義化されてしまい崩壊コースに乗せられてしまった。

          空間の歪を一言で説明 空間は質量中心の周りの同心球面状の閉曲面の集合だと考えられる。 その閉曲面の曲率がすなわちその半径地点におけるポテンシャルである。 「空間の歪とはそれを構成している閉曲面の曲率のことである。」 また重力加速度というのは、曲率に密度をかけたものである。

          空間の歪を一言で説明 空間は質量中心の周りの同心球面状の閉曲面の集合だと考えられる。 その閉曲面の曲率がすなわちその半径地点におけるポテンシャルである。 「空間の歪とはそれを構成している閉曲面の曲率のことである。」 また重力加速度というのは、曲率に密度をかけたものである。

          共通言語化について

           ことばは身近な範囲では共通である。しかし場所が異なれば、離れれば離れるほどことばは別のものになっていく。多分1000km離れれば、結構,ことばは変わる。  また時間経過によっても変わる。10年前のことばは今も通じるが、1000年前となれば、変化があり、学習しなければ理解できないだろう。  ことばの共通性も物理学のように位置と時間という変数に従っているようである。  ことばの変化については別に指数化できそうだということを述べた。  言語の変化にはばらける方向(分散化)と共通化

          共通言語化について

          言語の違い度(言語間距離)を指数化する試み

          言語がどれほど異なるかを数量的に把握することは単純なことではないが、大雑把には確率的分散の理屈に従うとも仮説できよう。 地理的距離をdと書けば同時代的には言語間の距離Dは d=10^D また統語された時代からの時間的隔たりをtと書けば、時間的言語間距離Tは t=10^T td=10^T+D log₁₀ td=T+D 単位はtが年、dがkmである。 このT+Dを言語間距離指数とする。 これが1〜2であればことばは普通にまたは大体通じ合える。せいぜい方言の差くらいの違いだ。  言

          言語の違い度(言語間距離)を指数化する試み

          物体とは空間の歪みによって生じた現象である。 空間の歪みと言う表現はわかりにくいが、即ち物体そのもののことである。 空間の歪みの程度は密度である。 質量を「動くにくさ」と言い換えられるならば、 動きにくさ=その物体を構成する閉曲面の歪みの積分 と書ける。

          物体とは空間の歪みによって生じた現象である。 空間の歪みと言う表現はわかりにくいが、即ち物体そのもののことである。 空間の歪みの程度は密度である。 質量を「動くにくさ」と言い換えられるならば、 動きにくさ=その物体を構成する閉曲面の歪みの積分 と書ける。

          民族主義

           民族の定義は一定ではない。地球上人類が様々に何らかのまとまりを主張して分化してきたものである。必ずしも遺伝子が似通ったものの集団とは言えない。人類というのはどの地域においても純系というものは存在しない。また言語は統語によって一律化(共通化)するものであり遺伝的素因とは関係ない。統語には自然的、商業的、学術的、宗教的、報道的、行政的なプロセスがある。統語によってコミュニケーション範囲を人類は拡張してきたのだ。言語には統語の方向と分散の方向がある。本稿では言語に関しては省く。

          経済学は人を粒子と見立てた一種の近似的流体力学である

           人から人へモノやカネが移動する。これを大きな視野で論ずるのが経済学である。  普通、カネとモノの動きは反対方向である。モノの対価としてカネが支払われるからである。ベクトルで言えばモノの移動を始点から終点で表すならば、カネの移動は終点から始点となる。  ここに日本地図があって、そこにカネとモノの移動をベクトルで書き込めば、多分人口分布に従ってベクトルの存在密度は決まるのだろう。  GDPという指標があるがこれはベクトル密度ともいえるだろう。  川に水が流れる。水分子に一つずつ

          経済学は人を粒子と見立てた一種の近似的流体力学である

          通貨価値を決めるのは農業だ

           通貨価値を決めているのは日銀でも政府でもない。  日銀や政府は通貨流通量や流通の邪魔はできるが、通貨の価値自体を決めることができない。  通貨価値を決めているのは市場だ。  その内でも多分、通貨価値を永続的に決めているのは農業者のみだろう。  つまり、例えば一万円札で何をどれだけ買えるかと言うことだ。たくさん買えればその札の価値は高いし、たいして買えなければ価値は低い。  日銀でさえ1万円札で何をどれだけ買えるのかをコントロールすることはできない。  製造業者は製品が売れる

          通貨価値を決めるのは農業だ

          通貨価値を連続的基調担保するものは食料生産のみである

           通貨価値を担保するものが何であるかはあまり議論されないが重要なことである。なぜ通貨に価値があるのか、それはいかばかりか。  硬化は金属なので、どれだけ通貨価値が低落してもその材料となった金属の値打ちは最低限保障されよう。1円玉ならば1gのアルミニウムの価値はある。しかし1万円札は紙幣である。いくら精妙な印刷が施してあるにせよ1万円の価値をその物体(1枚の紙)に担保させるわけにはいかない。  通貨は取引できてこそその価値を発揮する。  もしある島に取引すべきものが何も産まれな

          通貨価値を連続的基調担保するものは食料生産のみである

          おそらく通貨価値を裏打ちするものはつまるところ農業(食糧生産)しかないのだろう。 人口と食糧生産量は当然相互に依存し合う。 工業生産はいずれ需給が頭打ちとなる。 しかし、人類が存在する限り農産は頭打ちにはならない。

          おそらく通貨価値を裏打ちするものはつまるところ農業(食糧生産)しかないのだろう。 人口と食糧生産量は当然相互に依存し合う。 工業生産はいずれ需給が頭打ちとなる。 しかし、人類が存在する限り農産は頭打ちにはならない。