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経済学は人を粒子と見立てた一種の近似的流体力学である

 人から人へモノやカネが移動する。これを大きな視野で論ずるのが経済学である。
 普通、カネとモノの動きは反対方向である。モノの対価としてカネが支払われるからである。ベクトルで言えばモノの移動を始点から終点で表すならば、カネの移動は終点から始点となる。
 ここに日本地図があって、そこにカネとモノの移動をベクトルで書き込めば、多分人口分布に従ってベクトルの存在密度は決まるのだろう。
 GDPという指標があるがこれはベクトル密度ともいえるだろう。
 川に水が流れる。水分子に一つずつベクトルを与えるならば流体というのばベクトルの集合である。
 導線に電流が流れる。電子にベクトルを与えるならば電流はそのベクトルの集合として書けるだろう。
 人、一人一人にベクトルを与えるならばカネ、モノの動きは総体としては流体と似たようなモデルで近似できるはずである。
 人の世の変化も自然科学でいうところの法則性に従って移ろいゆくという歴史観を唯物史観というのだった。
 ある人がある時、あるところで取引するならば、時刻と位置(場所)がひとつだけ決まれば、その取引ベクトルも一つ決まる。時間と位置の関数のようなものである。これは物理学と同質のものである。
 これまで述べたのは、人から人へモノ、カネが手渡る行為をイメージしてきた。実際にはヒト自体も移動している。だからヒトを物理学で言う粒子に見立てれば人の流れも一種の流体のようなものである。
 水は落差によって流れる。これは水分子が重力ポテンシャルに沿って移動するということである。人も確かに高い山の上にいるよりも低い平地で日常を過ごす者が多いであろう。山の上に上るには運動エネルギーが要る。高地にいるということはそれだけポテンシャルを得ているということだ。山から下る時にはポテンシャルを吐き出しながら、落ち着くところまで行く。
 油田があるとする。油田は原油がたくさん存在している場所だ。つまり原油の存在密度が高いところだ。原油を取引すれば原油は密度が高いところから低いところへ移動するということだ。つまり物資の流れというのは高密度のところから低密度の方向へと移動するということだ。
 これは物資密度がポテンシャルを構成しているとも考えられる。
 同様に人口密度も一種のポテンシャルだ。人口は多い場所から少ない場所へと流れるポテンシャルをもっている。
 では、東京の人口はどうか。盆暮れ正月には都民はクニに帰るだろうけど、地方は相変わらずますます過疎で人口は都内に密集している。これは不自然なことだ。それには訳があるはずだ。つまり東京に人を集める圧力がかかっているということだ。何がそんなに東京に人を引き寄せるのか?
 地方から都会に出た若者に聞けば、仕事が地方にはないから、地方は不便だから、などと答えるのだろう。地方から都会に移動した企業にその理由を聞けば、地方では商売にならないからだ、と答えるだろう。人や企業は利益効率や利便をもとめて都会に集まるのである。
 ここで「利益が欲しい」という圧力を利益圧と呼べば、
利益(誘導)圧=動く人の数xカネの流動総額x動きにくさ
という方程式が書けそうだ。
 動きにくさとしたのは何か?もしこれが0ならば、つまりスイスイと何の抵抗もなく伊豆半島から東京へ瞬時にいけるならば誰も東京には住まないだろう。仕事の時間になったらすぐサッと行けるのだから。つまり利益誘導圧はかからない。東京に転居するのはすぐには行けないからだ。移動に抵抗が大きいほどこの圧力は大きくなる。月に行くならばよほど大きな圧力をかけなければ行けないのだ。
 ついでだが、
利益誘導力=動きにくさx加速度(利益格差) : F=ma
 という式もニュートン力学のように書ける。
 これは単純な一例だが、このように経済の動きは流体モデルに見立てて物理学のように論じることができそうである。

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