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📖村上春樹『パン屋再襲撃』を読むかもしれないし、読まないかもしれない

 小説を読むことはファッションショーのようなものである。裸の小説に解釈の衣を着せるのは楽しい。複数の解釈をぶらさげて、着せ替えをするとなお楽しい。

 今日は村上春樹『パン屋再襲撃』について書く。まずはタイトルから考察していこう。

タイトルについて

 なんとも魅力的なタイトルである。パン屋と再襲撃を組み合わせるセンスが素晴らしい。まずは、まったく読んでいない体で、タイトル考察をしていこうと思う。

 ひとまず『パン屋再襲撃』を、パン屋と再襲撃に分解してみよう。

パン屋について

 パン屋といっても、一体どのようなパン屋なのか? 小規模な、個人経営の店なのか。チェーン店かもしれない。どのようなパンを売っているかも分からない。パリでも十分やっていけるフランスパンか、あるいは日本人にはおなじみの菓子パンか。

 または、この作品に出てくるパン屋では、キリストの肉を売っているのかもしれない。(キリスト教において、パンはキリストの肉に、ワインは血に見立てられる。)パン屋はキリストの肉の小売店であって、大量生産・大量消費のシステムのもとに信仰を売っているのかもしれない。

 パン屋は何かの比喩かもしれない。穀倉地帯の比喩かもしれない。つまり『パン屋再襲撃』とは、穀倉地帯が複数回、少なくとも二回は襲撃される壮大な話なのかもしれない。

再襲撃について

 気になるのは、”再”の部分である。ここから、襲撃が二回以上起こったことが読み取れる。

 もちろん襲撃という言葉も気になる。襲撃とは実際にどのような意味だろうか? 侵略行為だろうか、侵攻だろうか、はたまた革命か、テロか、クーデターか。

あらためて『パン屋再襲撃』

 パン屋と再襲撃について、十分に(?)掘り下げたところで、『パン屋再襲撃』というタイトルについて想像を膨らませてみよう。

 字面から直接的に想像すると、特定のパン屋を二回以上襲撃する(した)話ということになるだろう。しかし、この点をもっと深読みしてみる。

仮説1:パン屋=キリストの肉を売る店、再襲撃=革命
 大量生産・大量消費システムの中で信仰を売っている”パン屋”を襲撃する話かもしれない。商品化される信仰を非難する人々が、ついに集ってパン屋を襲撃するのだ。再び宗教改革を起そうとでも言わんばかりに。(私は宗教改革に明るいわけではないけれども。)

仮説2:パン屋再襲撃=モダン米騒動
 パンも米も主食である。つまりパン屋再襲撃というのは、歴史上の米騒動のアナロジーとして勃発した事件なのかもしれない。

 このように仮説を立ててみたところで、いよいよ本文を読んでいく。

あらすじ

 パン屋を襲撃したことのある主人公「僕」が、妻と一緒に、もう一度パン屋(正確にはマクドナルド)を襲撃する話である。(襲撃といっても強盗に近い。銃で店員を脅すのだ。)

 ちなみに「僕」は一度目のパン屋襲撃(こちらは普通のパン屋)を半ば失敗している。奪取すべきパンは得られたものの、店主の機転により、強盗らしいことができなかったためである。店主が「ワグナーの音楽を聴けば、パンはくれてやる」と言ったのだ。「僕」はそれに従ったために、パン屋襲撃に半分失敗した。(パンは得られたが。)この経験は、「僕」にとっての呪いとなった。

 この呪いがある日突然やってくる。「僕」と妻は強烈な飢餓感に襲われる。この呪いおよび飢餓感を解消するために、二人は散弾銃で武装して再びパン屋(マクドナルド)を襲撃するのだ。

 さっきは「このように仮説を立ててみたところで、いよいよ本文を読んでいく。」と勇んでみた。しかし、大風呂敷を広げてタイトルを考察することに意味はなかったのだ。ひとまずパン屋を襲撃するという話らしい。タイトルそのままではないか。

特殊な飢餓について

 この小説において、飢餓感(作中では「特殊な飢餓」)は重要なワードである。では「特殊な飢餓」とは何か? 「僕」曰く、このようなイメージらしい。

 ①僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる。②下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える。③海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、しかし正確なところはわからない。④何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。

 今のところ差し迫った危険がないものの、自分の直下には海底火山があるという恐怖ーーいつか勃発するが、いつ勃発するか分からない危機への恐怖ーーがうかがえる。しかも「特殊な飢餓」という位だから、何かテキトーなものを食べて解消できるような飢餓ではない。

 この飢餓感に関して、物語の最後には解消される。

夜明けとともに、我々のあの永遠に続くかと思えた深い飢餓も消滅していった。

 さて、ある程度、この「特殊な飢餓」の詳細が分かってきた。ではこの飢餓感の正体は何であろうか? 具体的に考察していこう。

① 単なる食欲としての飢餓感
 手始めにこの説を挙げておく。素直に食欲の問題だとしてしまおう。これ以上説明しようとしても、あとは物語の通りなので、説明することはない。「僕」はビッグマックを6個食べたので、たぶん満腹になっただろう。しばらくは何も食べたくないはずだ。

② 襲撃そのものへの飢餓感
 本当はパン屋を襲撃したかっただけではないのか。つまり、野蛮や暴力や戦争に対する飢餓感があるのではないか。この描写から論理的にこの結論が導けると説明できるわけではないのだが、どうもこちらの仮説を建設したって良い気がする。

《なぜ二回目にマクドナルドを襲撃したのか?》
 二回目の襲撃では、マクドナルドを標的にしたという点が気になる。マクドナルドは何の象徴であろうか。グローバリズムか、資本主義か、アメリカか。そのようなものに反発したいけれども、反発できない、そのフラストレーションを「特殊な飢餓」として喩えたのかもしれない。

《なぜ一回目の襲撃時に、店主はワグナーを聴かせたのか?》
 「僕」が一回目のパン屋襲撃に半分失敗したということは既に述べた。「僕」がワグナーを聴けば、パンを渡してやるという条件を、店主は提示したのだ。そして「僕」はそれにうっかり従った。

 では、この”ワグナーを聴く”というのは何を意味していたのか? ワグナーといえば、ドイツが輩出した偉大な作曲家である。よって、ワグナーの音楽は西洋文化の象徴ともいえる。つまり、「僕」はパンと一緒に、西洋文化も輸入させられたのだ。

 ちなみに、ワグナーと同時期に生まれ、活躍したのがマルクスである。「僕」はパンと一緒にマルクス主義を輸入させられたのかもしれない。

*この考察に関しては下記のブログが示している。

 つまり、「僕」がパン屋を襲撃したくなるのは、西洋文化やマルクス主義への反発があるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

おわりに

 ここで終わってしまうのか!? と言われてしまいそうだ。スッキリしないとも感じるだろう。可能性と仮説を散らかしておいて、片付けない。そのような態度は誠実ではないかもしれない。

 しかし、私はそこに小説を読む楽しさを見出す。小説を読むこととは、タンスから服を引っ張り出すだけ引っ張り出して、気の赴くままに着せ替えて、床に服を脱ぎ散らかすような営みであると思っている。自分と小説と、この二人だけでファッションショーをするのだ。随分と華やかで寂しい営みである。

 部屋を散らかしたまま、試着で気に入った服を着てそのまま街を歩いてもいい。部屋に閉じこもって孤独なファッションショーを続けてもいい。普段は人に説明する以上、解釈をひとつにまとめて書評を執筆する。しかし今回はわざと散らかしてみた。このような書評もたまにはどうだろうか?

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