てんぱ

社会学を学ぶ大学3年生です。世の中について考えたことを投稿します。評論やエッセイの形式…

てんぱ

社会学を学ぶ大学3年生です。世の中について考えたことを投稿します。評論やエッセイの形式を取るつもり。ドキュメンタリー映画が好き。社会哲学に興味を持っています。

最近の記事

東海道を歩く 4日目 箱根湯本〜沼津

概要 0820 宿を出る 1015 甘酒茶屋で休憩 1120 箱根関所に到着 観光 1245 箱根峠のPAで昼食 1405 山中城址の横を通過 1615 三島宿に到着 1745 沼津宿に到着 総移動距離:34kmくらい 総歩数:46,680 箱根湯本〜箱根宿(10kmくらい) ひたすら登る。たまに下る。蜘蛛の巣大量の山道がしんどかった。石段の角度も鬼。雨が降った後なので石畳がコケの関係もあって滑る。心が折れそうになりながら歩いた。 タイトル画像にもある、箱根8里は馬

    • 東海道を歩く 3日目 茅ヶ崎〜箱根湯本

      概要 930 茅ヶ崎からスタート 1045 平塚宿に到着 1130 大磯宿到着 1235 昼食 50分休む 1635 小田原宿到着 1810 ホテル到着 距離 だいたい33km 歩数 45,236 茅ヶ崎駅〜平塚駅(7kmくらい) 前半は特に何も起きず過ぎる。このあたりは鎌倉時代の史跡が多い。相模川は頼朝の落馬が不吉とされて橋が建設されなかったらしいが、いつまで引きずってるんだ?と思ってしまった。 平塚宿〜大磯宿(4km) 4kmと短い区間。とはいえ史跡は結構残っ

      • 東海道を歩く 2日目 神奈川~茅ケ崎

        2日目概要 845 横浜駅近く、昨日の到達地点からスタート 930 保土ヶ谷宿に到着 950 権太坂を越える 1140 戸塚駅に到着 昼食 1430 藤沢宿に到着 1615 茅ヶ崎駅に到着、帰宅 移動距離:30kmくらい 総歩数:42,214 神奈川宿~保土ヶ谷宿(5.1km) 神奈川宿から少し進んだところで切り上げたので、残りは3km程度。短いため印象に残るものも少なかった。いわゆる「見附」という地名について、宿場の入り口近くに監視所的な役割で作られていたことを知る

        • 東海道を歩く 1日目 日本橋~神奈川

          今日から東海道を歩きます。可能であれば京都まで、半月で行く予定です。心と身体のどちらかが壊れなければ行けるはずです。この文章は備忘録代わりに残しています。 本来は中山道を進む予定で、以前歩いた分(日本橋~鴻巣)を省略しようと考えていたのですが、下調べをしているうちに初めての長距離徒歩旅にしては難易度が高いことが判明。長野県の山中など、ミスした時のリスクが高い(うえに熊も出る)ので今回は断念しました。 今回の旅へ向け新版 ちゃんと歩ける東海道五十三次を2冊揃え、モバイルバッ

        東海道を歩く 4日目 箱根湯本〜沼津

          「観る」将の増加は何をもたらすのか?

           近年、ネット中継などで将棋を「観る」人が増加している。ABEMAなど中継媒体が増え、プロ棋士による発信が増加し、最近では観る将向けの読み物も多くなってきている。幼いころから将棋をやってきた身として、尊敬する人々が社会的に評価されるようになってきたことは、率直に嬉しい。  しかし一方で、こうした現象が全面的に良い影響をもたらすわけではないのではないか、と思うようになった。なぜならば、「観る」行為は一方で「観るに値しない」ものを生み出すからだ。簡単な例を挙げれば、プロ棋士であ

          「観る」将の増加は何をもたらすのか?

          “ことば”とネット社会における「身体性」

           最近、些細な言葉の間違いを目にする機会が増えた。「しづらい」と「しずらい」であったり、「ずつ」と「づつ」であったり。動画の字幕、SNSでの発言、数え上げればキリがない。大学の授業で共有する資料に入っていたときは、それでも国立大生かと思ってしまったけれど、あれどっちだっけと考えてしまった機会が私にもない訳ではなかった。  伝わればそれでいいじゃないか、という主張に一定の理があるのは理解できる。しかしその一方で、私には言葉に対する繊細さを失ってはいけないという思いがある。

          “ことば”とネット社会における「身体性」

          「真実」をめぐる争い

           今回のコロナウイルス流行がもたらした一つの大きな問題は、「真実」というものの中身が争われる、その構図が明確になったということだ。それは、様々な言説を支える背景としての思想が、もはや大きな意味を持たなくなったということを意味している。  何を言っているんだ、「真実」は一つに決まるから「真実」なのだ、という話はもちろん承知している。しかし今回の場合、真実は結果的に得られるものに過ぎない。感染状況や政策については様々な議論(それに満たないものも山ほどあったが)が行われてきたが、

          「真実」をめぐる争い

          現代サブカルチャーにおける"セツナ系"③-「綺麗」で「純粋」な作品たち-

          ①→現代サブカルチャーにおける"セツナ系"①-「君の名は」と「天気の子」 ②→現代サブカルチャーにおける"セツナ系"②-その背後にあるもの- 一つ、「セツナ系」の流行を指し示す画像がある。まずはそれを見てみたい。 https://twitter.com/photo_okina/status/1268123125213917184 このツイートはすさまじい量の反応を得ている。しかし冷静に考えてみたいのだが、このような少年/青年時代を過ごした人が世の中にどの程度存在するのだ

          現代サブカルチャーにおける"セツナ系"③-「綺麗」で「純粋」な作品たち-

          現代サブカルチャーにおける"セツナ系"②-その背後にあるもの-

          前回記事→現代サブカルチャーにおける"セツナ系"①-「君の名は」と「天気の子」  端的に言ってしまえば、「刹那性」が好まれる原因は現代の世の中が作中と同じような状況にあるにも関わらず、現実の人々が登場人物ほど純粋になり切れないということになるだろう。そして、閉塞的な現代社会から疑似的に抜け出す手段としてサブカルチャーの消費に至っているのではないか。  詳しく述べていこう。日本社会は近年、閉塞している。失われた20年、少子高齢化、非正規の増加に伴う賃金の低下…挙げればキリが

          現代サブカルチャーにおける"セツナ系"②-その背後にあるもの-

          現代サブカルチャーにおける"セツナ系"①-「君の名は」と「天気の子」

           近年のサブカルチャーで最も話題になった作品、それは「君の名は。」だろう。小説の世界に目を向ければ、「君の膵臓をたべたい」がある。両作品とも、売り上げは他を大きく引き離している。それはなぜか。  私は、両作品を中心とした「セツナ系」とも言うべき一つの潮流が表れていると指摘してみたい。そしてその潮流に乗らなかったからこそ、「天気の子」は「君の名は。」ほど受けなかったのだと考えている。  やや説明は長くなる。①「セツナ系」とは何か、②なぜセツナ系は流行るのか、③他のセツナ系作

          現代サブカルチャーにおける"セツナ系"①-「君の名は」と「天気の子」

          サブカルチャーが失われるとき-極私的サブカル論

           大学3年生になって3カ月が経過しようとしている。オンライン授業の忙しさにも慣れてきたので、今後ちまちまと文章を書いていきたい。  今回、題を「サブカルチャーが失われるとき」としたが、これはコンテンツ自体の消滅を意味しない。これまでサブカルチャーとみなされていたものが、サブカルチャーでなくなっていくという意味合いである。細かい部分は、これから説明していく。 ・そもそもサブカルチャーとは  「サブ」カルチャーが存在するならば、当然メインとなるカルチャーも存在するはずだ。この

          サブカルチャーが失われるとき-極私的サブカル論

          「専門家」の溢れた世界で、私たちはどうするべきか?

           新型ウイルスの報道を見ていると、専門家の多さに驚かされる。会社によって、日によって、時間によって、様々な専門家が意見を述べ、それが拡散されていく。いったい何が正しくて、私たちはどうすればいいのか、わからなくなってしまった人は多いだろう。私もそのうちの1人である。  私の学ぶ社会学を含め、近代において様々な学問が誕生し、発展し、細分化されてきた。ミシェル・フーコーやジョン・ロールズなど、過去には分野横断的に学び、論を提唱する学者もいたが、現在そういった人は少ない。  それ

          「専門家」の溢れた世界で、私たちはどうするべきか?

          「国益」という言葉に思うこと

           ここ5年くらいで、「国益」という言葉をニュースなどで見る回数がかなり増えたと感じるのは、気のせいだろうか。国家が利益に拘るのは良いことだ、という主張は正しいのだろう。ただ一方で、「国益」という強い言葉があまりに軽く使われすぎているのではないか、と私は思う。  「国益」という言葉を政治家が使うとき、それは「誰が見てもわかりやすい短期的な利益」を獲得しよう!と人々にアピールする時ではないだろうか。それらを受けて、人々は国益という言葉を連鎖的に使うようになる。  問題は、「国

          「国益」という言葉に思うこと

          才能は誰のものなのか

           題を見て何を言っているんだ、才能はその人のものだろうと考える人が多いだろう。  才能というものの定義は難しいが、一般的な理解からすれば「持って生まれたもの」で、程度の差はあるにしろ生きていくうえで有利になることが多い。努力の成果と才能によるものを見分けることは難しいだろうが、才能の存在を否定する人は少ないだろう。  才能を「持って生まれたもの」とすれば、それは生まれる家が裕福であったか/貧しいかによって生まれる格差の問題と、性質的にはあまり変わらないのではないか?  

          才能は誰のものなのか

          米大統領選2020 民主党予備選の展望

          ※この文章は大学でアメリカ現代政治を学んだだけの、素人に毛が生えた程度の人が書いています。ファンがプロ野球の順位予想をしている時に向ける温かい目を持っていただければと思います。  アイオワに続き、ニューハンプシャーでの予備選挙も終わった。ここまでの結果に関しては、以下のサイト(https://www.fnn.jp/posts/00050241HDK/202002131000_FNN_HDK)が分かりやすい。アメリカでは州ごとに投票を行い、それぞれに割り当てられた代議員を獲得

          米大統領選2020 民主党予備選の展望

          国家は成長し続けなければならないのか?

           現在の日本には数多くの社会問題が存在する。それらを、より根本から考えてみたいと思ってnoteを始めることにした。まずは、「国家は成長し続けなければならないのか?」という問題をみていきたい。  バブル崩壊以後、日本経済は停滞を続けていると言っていいだろう。現在の政権はデフレ脱却を掲げて大規模な金融緩和を行っているが、大きな成果が出たとは言い難い。  客観的に見ても、超高齢化社会と少子化、不安定な国際情勢、多国籍企業の寡占化などを踏まえれば、日本の経済成長は非常に難しい。し

          国家は成長し続けなければならないのか?