「真実」をめぐる争い


 今回のコロナウイルス流行がもたらした一つの大きな問題は、「真実」というものの中身が争われる、その構図が明確になったということだ。それは、様々な言説を支える背景としての思想が、もはや大きな意味を持たなくなったということを意味している。

 何を言っているんだ、「真実」は一つに決まるから「真実」なのだ、という話はもちろん承知している。しかし今回の場合、真実は結果的に得られるものに過ぎない。感染状況や政策については様々な議論(それに満たないものも山ほどあったが)が行われてきたが、まあ3年後くらいには分析が済み、何らかの結論が出ているのだろう。

 要は、国や地方自治体・専門家・コメンテーターの唱える説はどれも真面目なもの(そうであると信じたい)であり、どれも基本的には真実を語っているはずなのだ。しかしそれらは内容が大きく異なることが多く、ネット上で論争を巻き起こすことも珍しくない。そして悲しいことに、論争が暴力性を伴うことも多い。

 こうした争いは、なぜ起こるようになったのか。ネットの登場、マスコミの暴走、原因を挙げればキリがないだろう。だが私は、一つの根本的な原因として、「真実」という言葉の持つ意味が時代によって変化していると主張してみたい。

 主な区分けとしては、「宗教」の時代、「科学・思想」の時代、現代の3つになる。凄まじく大雑把な区分けで論としての意味を失っているとも思うのだが、学生の世迷い言として許していただきたい。

「宗教の時代」においては、主に中世ヨーロッパを想定している。例として分かりやすいために挙げたが、つまりは他の宗教と混じりあわない時代と考えていい。
 この時代では、「真実」は神の規定するものであり、その意志にほかならない。そもそも他の宗教との関わりがないのだから、自らの宗教、そして神の絶対性に疑いを持つことなどないのだ。それどころか、自らが宗教を信じているという自覚すらもなかったのである。そのため、真実は限りなく絶対的な一つのものとして存在することができた。
 もちろん例外はあるのだろうが、他の宗教を信じるものを悪魔として、共同体内の裏切り者を異端として処理できる世の中において、その絶対的は基本的に揺らがないと言ってもいいだろう。

 次は、科学の時代である。宗教の絶対性が破られつつあるなかで、新たに世界の真実を語るものとして科学や思想(資本主義・社会主義・民主主義etc…)が登場してくる。ここに来て、「真実」をめぐる争いがスタートしたと言えるだろう。その争いは学界での議論に留まらず、戦争へと及ぶこともあった。
 しかし一方で、当時の「真実をめぐる争い」が現代とはやや異なったものであることには言及しておかなければならない。宗教という真に絶対的な存在がその地位を降りたことで、その後釜を狙う争いが始まった。しかしその争いは、自らの信ずるものが真実ではないかもしれない、という不安と常に隣りあわせとなる。この点では現代と変わらない。しかし、その争いの勝者が宗教に変わり新たな絶対性を確保する、そういった感覚が残っていたことは間違いないだろう。ここが大きな違いとなる。
 冷戦は西側の勝利に終わり、科学はますます発展を遂げ、民主主義はグローバルスタンダードなものとみなされるようになった。しかし残念なことに、それは何も解決することはなかった。そこから、現代が始まるのである。

 この文章における「現代」がいつから始まるのか、それを正確に定義することはできない。科学の敗北という意味ではレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が象徴的なのだろうか、それとも資本主義の勝利が確定したのち、9.11などさまざまな暗部が明らかになってきたときだろうか。
 真実をめぐる争いに勝利し、絶対的な立場を得るはずだった資本主義・民主主義、そして長らく発展を続けてきた科学は、その欠点を徐々に露わにしていく。どんなに世界が発展しても人々が絶対的な幸福を得ることはなく、科学も様々な公害や災害を引き起こしていく。

 ここに来て初めて、「真実をめぐる争い」が最終形態に入ると、私は考えたい。


 時代を経るごとに、「真実」を支える何らかの絶対性は弱まってきた。現代でも科学や思想に対する信仰が残ってはいるが、中世ヨーロッパのように信仰を信仰とも思わない状況とは、その強度が圧倒的に異なる。そして現代において、人々は自らの立場に応じ、選びたいものを真実とみなすようになったと、私は考えたい。
 もちろん、科学・思想の時代から人々は信ずるものを選択してきた。だが、その思想の先には何らかの、輝かしい将来像があった。だからこそ、現在の立場ではなくその先の社会像への信仰となったのである。将来像が失われた現在、人々は「今、どのような選択肢が望ましいか」という短期的なものの見方をしているように感じられる。

 この姿勢は、新型コロナウイルスの感染が広まるにつれて明らかになった。絶対的ではない科学は様々な説を唱えるばかり(もちろん、専門家に悪意はないのだが)で、人々はどれが真実か思い悩むこととなる。結果として、専門知識もないのに自らの周囲にある状況から、自らの立場において最も選択したい説を採用することになる。

 上に書き方から見るに私がこのような現状に対し不満を持っていることが分かるかもしれないが、人々の姿勢は同じように見えて実は2パターンある。それは、真実がないかもしれないという相対主義的な立場を採用しつつ、民主主義を採用している兼ね合いもあって疑似的に何らかの説を支持している場合、もう一つは、こうした真実をめぐる争いの状況に自覚的でなく、ただ選びたいものを選んでいる場合である。
 この場合、圧倒的に前者のほうが望ましい。柔軟に考えを切り替えられる点で、民主主義向きであるともいえる。
 
 やや話は変わるのだが、この話は先日芦田愛菜さんが発言していた内容に重なってくる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c451df6b7ca03944ae65c06e1efcc7bb2af7ef69

ここで芦田さんは、「受け止められる揺るがない自分がいるというのが信じられること」と述べている。この場合は他者を信じることについての発言だが、内容的には若干重なってくる。「何かを信じる」ことに対する姿勢が変わってきているのだ。

 何が真実か分からない時代において、人々は自分が真実と思うものを(意識的なものかは置いておいて)選択する。しかしその際、「信じる」というものの背後にある絶対性は、宗教や思想がそれを強く支えていた時代と比較して弱くなっているのだ。だからこそ、自己を信じられるかという次元の話になってしまう。

 こうした「真実」をめぐる構造の変化に自覚的ではない人々は、自らの立場に最も望ましい選択をする。コロナウイルス下では、それが明確化しただろう。生活が苦しい人は商業活動の再開を、旅が好きな人は移動の自由を、それぞれ逡巡しながら主張し、実行に移した人もいる。だがその中にも、自らがやっていることが本当に正しいのか、という不安を抱える人が少なくなかったのだろう。そこの不安が、たとえばネット上で詳しくもないのに専門家の意見を垂れ流し、時には感情的に敵対する意見・説をこきおろすといった構図が生まれているのではないか。

 近年、ネット上で「正義」を振りかざし、他者を攻撃する例は後を絶たない。それに対し、「社会的想像力」を持つよう訴える社会学者が現れる、といった構図ははっきり言って飽きてしまった。まあ、それが唯一の解決策なのだが。

 自らの意見が真実である、と盲目的に信じ込み、しかし他者からの共感が思ったより得られない(場合によっては見たいものだけを見ることのできるネットで集団が暴走するケースもあるだろうが)、真実であるという絶対性が十分に感じられないからこそ、人の意見は感情的・攻撃的になると予想してみたい。

 それでは、そうした一種の信仰から抜け出すためにはどうしたらいいのだろうか。

 人々は、おそらく他者が自らと異なるということには早期に気づけるだろう。だが、自らも宗教的である、という部分にはおそらく自分自身で気づくほかない。

 結局、多様性やリテラシー教育という部分に多くを頼るほかないのだろうな、とは思う。既に教育課程を終えた人々への対策は分からない。世の中が便利になりすぎたと言ってもいいのかもしれないが。

 ここまで長々と書いてきたが、私が相対主義を「信仰」していることは読んでくれた人には伝わっただろう。これは一種の民主主義的な態度なのかもしれないが、一方で不可知論に陥る危険性もある。「疑似的に何らかの説を信仰する」ためのモチベーションが無くなったら終わり、という危機感を感じなければならない点で、盲目的に何かを信仰できることへの羨ましさを感じないわけではないのだ。だからこそ、相対主義という一種の絶対性(?)という矛盾を抱えるであろう物を希求しているのかもしれない。しかしそうしなければ、今現在流行している「感情の押し付け合い」に、理性が敗北する可能性があると私は考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?