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現代サブカルチャーにおける"セツナ系"①-「君の名は」と「天気の子」

 近年のサブカルチャーで最も話題になった作品、それは「君の名は。」だろう。小説の世界に目を向ければ、「君の膵臓をたべたい」がある。両作品とも、売り上げは他を大きく引き離している。それはなぜか。

 私は、両作品を中心とした「セツナ系」とも言うべき一つの潮流が表れていると指摘してみたい。そしてその潮流に乗らなかったからこそ、「天気の子」は「君の名は。」ほど受けなかったのだと考えている。

 やや説明は長くなる。①「セツナ系」とは何か、②なぜセツナ系は流行るのか、③他のセツナ系作品は何か、と3回に分けて述べていきたい。

※なお、音楽ジャンルとして「セツナ系」というものが存在する。とはいえマイナーなものであり本旨に関係がないため、スルーしたい。

セツナ系の特徴としては、以下の3点があると考えている。
① 現代を生きる中学生や高校生が主人公であり、逆らいようがなく、説明のつかない何らかの(時に超常的な)現象に巻き込まれる。
② 内容が刹那的である。主人公たちは目の前にある問題に立ち向かうだけで精いっぱいだが、目的や願いが必ずしも叶うわけではない。(むしろ、失敗することが多い。)
③ 視聴者/読者には恋愛関係を意識させる作りになっているものの、当事者たちは意識しないことが多く、意識したとしても実際の関係に発展しない。

 ②を満たす作品は、有史以来様々なものがあると言っていい。①に関しても、特にアニメーションにおいて多く見られる。だが、③はかなり特徴的である。そして、3点すべてに当てはまる作品はかなり少なくなるだろう。そうした特徴を持つ理由に現代社会の反映という意味合いがあると考えているが、その説明は次回に回したい。

 ここからは、「君の名は。」「君の膵臓をたべたい」が上記の特徴に当てはまっているのか確認してみたい。ネタバレを含むので、今後見る/読む予定がある方はブラウザバックをお勧めする。


 まず「君の名は。」だが、主人公は高校生の男女であり、体の入れ替わりや隕石、時空間移動などの現象に巻き込まれる。村の消滅=多くの人々の死という最悪な事態は避けられたものの、両者は互いのことをおぼろげにしか覚えていない状態になっている。再会したところで映画は終わり、その後どうなるかは分かっていない。そもそも記憶があった時でも、お互いを意識していることは伝わってきたが、当事者たちがそれを恋愛感情と思っていたかはかなり怪しい。

「君の膵臓をたべたい」では、高校生である主人公が余命宣告を受けている同級生に出会い、死を意識しながら様々に交流するが、最終的には病気ではなく通り魔による殺害という形で同級生は死亡する。作中では病気のことがあまり大きく触れられず、奇妙に思えるほどに楽しげな二人の日常が描かれる。二人が互いを意識していることは伝わってくるが、しかし実際に恋愛関係へ繋がることはない。

 こうして見ると、両作品は似通っていると言えなくもない。その中でも最も重要なのが、「刹那性」である。学生という時間制限のある身分、長期的な視野を持たせない突発的な問題、本来は長続きするはずが短く終わる恋愛…それらはすべて、「刹那」の美しさを高めるための装置と考えていいだろう。そして「刹那」こそが、現代のサブカルチャーを楽しむ人々に最も受ける要素なのである。(この理由は、次回説明したい)
 
 刹那=瞬間的な充実というものは、文学や映像の作品と相性が良い。(「刹那」と「せつない」は本来無関係のようだが)作品を通じ、「せつない」気分になってもらうことは作り手による一つの有効な手段だからだ。

 こうした「セツナ系」の条件を整理したうえで、なぜ「天気の子」は「君の名は。」ほど伸びなかったのかという話をしたい。

それはまさに、「天気の子」が刹那的でなかったからである。

「天気の子」の話の構造は、「君の名は。」と似ている。高校生である主人公が中学生であるヒロインと出会い、彼女の超常的な能力により危機を迎え、ヒロインを犠牲にして世界を守るか、それとも守って世界を危機に陥れるかという2択を迫られる。結果として主人公はヒロインを取り、数年後に両者が水没した東京で再開するシーンで映画は終わる。

 この作品が「刹那的」であるならば、おそらく主人公はヒロインではなく世界を取り、自らの選択の結果に苦しみながら生きていくと描くべきだったと思う。それは監督である新海誠も分かっていただろう。だが、彼はその選択をしなかった。なぜか。
 それは、「刹那」が持つネガティヴさへの違和感を表明したかったからではないかと私は考える。架空のキャラクターとはいえ、その死が綺麗なものとして描かれる図は、なんと表現していいのか難しいが、歪んでいる。そうした風潮への反発として「天気の子」は存在しているのではないか。

 だが結果として、「天気の子」は「君の名は。」ほど伸びなかった。刹那性をよしとする人々の姿勢は、揺らがなかったともいえるだろう。

ではなぜ、それほどまでに「刹那性」が好まれるのだろうか。次の記事に書いてみたい。(明日投稿)

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