「専門家」の溢れた世界で、私たちはどうするべきか?

 新型ウイルスの報道を見ていると、専門家の多さに驚かされる。会社によって、日によって、時間によって、様々な専門家が意見を述べ、それが拡散されていく。いったい何が正しくて、私たちはどうすればいいのか、わからなくなってしまった人は多いだろう。私もそのうちの1人である。

 私の学ぶ社会学を含め、近代において様々な学問が誕生し、発展し、細分化されてきた。ミシェル・フーコーやジョン・ロールズなど、過去には分野横断的に学び、論を提唱する学者もいたが、現在そういった人は少ない。

 それも当然なのかもしれない。学問の発展とともに基礎知識は増えていく。複数の学問分野について高いレベルで学べる人は少なくなるし、一般の人にとってあらゆる学問はハードルが高いものとなっていく。結果として、「現実」の解釈すら難しくなってしまう。

 今回のウイルス対策で、その問題が鮮明になった。1人の医師として、意見を述べる人がいる。一方で、感染症対策の専門家として、または経済を、教育や子供の成長を、貧困を研究する人が、それぞれマスメディアで意見を述べる。同じものを研究していたとしても、意見が同じになる訳ではない。

 それらの意見を目にした・耳にした私たちは一人の「似非専門家」として、共感できる専門家の意見を掲げるようになる。ワイドショーのコメンテーターが、それを増幅しているように私は感じる。彼らは専門家ではないが視聴者に影響力を持ち、「それっぽい」意見を述べることが役割となる。そこに論理性があるかはかなり怪しい。こうしたコメンテーターは、「メディアに呼ばれ続ける」ことが目的とならないか?視聴者が求めるようなことを言い続ければ、そこには「コメンテーター・ポピュリズム」が成立する、というのは言い過ぎだろうか。

 そろそろ本題に入ろう。この専門家が溢れた時代で、私たちはどうすべきか?

 私の意見としては、結論は出ない。世の中の現象は数多くの学問から、数多くの専門家から解釈されるが、それらをまとめて1つの、絶対的な結論が出されることはないだろう。意見に統一性が無さすぎるからだ。

 結局は、政治の出番となるのだろう。政府が集めた様々な情報を踏まえたうえで、ベストかはわからないがベターな選択肢がとられる。国民からは不満も上がるかもしれない。しかしどうしようもない。情報源となる専門家が異なるのだから。

 最終決定するのは政治家だ。専門家ではない。高度な政治判断が求められる中で、判断を下すまでの過程がブラックボックス化することは、為されてはならない。東日本大震災後、福島原子力発電所への対応も、今回と似ているかもしれない。正しい判断が下せるとは限らないし、失敗する可能性もかなりある。このような時代に政治家として責任を負う、というのはかなりの覚悟を要する。今の日本の政治家が、そのことに自覚的であるかは分からないが。しかし、後の断罪を恐れず情報公開(判断基準について)しなければ、人々は納得できないだろう。

 学問が発展した結果、人類は身に余る知を手にしてしまったのだろうか。それはわからないが、よりよい世界を求めた人々が、結果として絶対性の喪失を招くことになったのは事実だろう。

 しかし起きてしまったことは仕方がない。人類はこれからどうすべきか。一つは、AIに依存することだろう。たとえ判断までの過程がブラックボックス化しても、人間には考え付かない選択肢が用意されるかもしれない。失敗した場合の責任はどこにも求められないが、ひとつのベターな選択肢となりうるかもしれない。

 もう一つは少し前から始まった、総合人間学部などを中心とした分野横断的な取り組みだろう。文理を問わず、幅広く人間について学ぶ。生物学、社会学、哲学、人類学、それらを組み合わせ、新たな知の体系を作り出す取り組みと言えるだろう。少しでもベストに近い選択肢を提示するための取り組み、と言えるかもしれない。

 現在専門家が言っていることは、当たるものもあれば、外れるものもある。その一方で、人々は科学の絶対性を、いまだ信じているように感じられる。自らが信じた専門家の判断に裏切られれば、人は「知」そのものを疑い始める可能性もある。そういった意味でも、現在は難しい状況だと思う。

 私たちがやるべきことは、できるだけフラットな視線で情報に向き合い続けることだ。いちいちソースを確認するなど、はっきり言って手間はかかる。しかし、その手間こそが自由な民主主義社会で生きるための代償と言えるのではないか。

 私は社会学を学ぶ身だが、哲学や心理学にも興味がある。まだまだ若造、という感じではあるが、「越境する知」を手にするため、打ち立てるため、学んでいきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?