現代サブカルチャーにおける"セツナ系"②-その背後にあるもの-

前回記事→現代サブカルチャーにおける"セツナ系"①-「君の名は」と「天気の子」

 端的に言ってしまえば、「刹那性」が好まれる原因は現代の世の中が作中と同じような状況にあるにも関わらず、現実の人々が登場人物ほど純粋になり切れないということになるだろう。そして、閉塞的な現代社会から疑似的に抜け出す手段としてサブカルチャーの消費に至っているのではないか。

 詳しく述べていこう。日本社会は近年、閉塞している。失われた20年、少子高齢化、非正規の増加に伴う賃金の低下…挙げればキリがない。特に作品を享受する若者層にとっては、そう見えるだろう。そして若者たちは将来に希望を持てなくなっているし、その閉塞感を打破しようとすることもしない(あるいは、できない)。その結果として、作品内で純粋に閉塞と立ち向かうキャラクターたちへの感情移入が強くなっているのではないか。そもそもの話をしてしまえば、現実に適応できないことの逃げ場としてサブカルチャーがあったとも言えるのだが。

 作品内では、閉塞感が何らかの超常的な現象によってもたらされる。それは死であったり、何らかの能力だったり、大人に対する子供の反発だが、そこに絶対的な悪は存在せず、結果として明確な正解もあり得ない。
 現実も作品も閉塞するなか、違うのは登場する人々がその状況に反発するかどうか、という点だ。現実では、社会に大した希望を持たずに生きることが選択される。しかし、作品内のキャラクターは何らかの行動を起こし、それに立ち向かう。そうした登場人物たちへの共感こそが、「刹那性」の本質だと私は思っている。

 おそらく無理であるものに、それを承知で挑むということ。彼らが失敗しようと、「刹那的」であればいいのだ。登場人物たちによる感情の発露、そこに人々が感情移入し、疑似的に閉塞性に立ち向かった気分にさえなれればそれでいい。「セツナ系」の作品の本質はストーリーではなく、感情の共有にあると私は考えている。だからこそ、「君の名は。」は鑑賞者全体の15%以上が、10代・20代の男性においては25%がリピートしている。(第6回「映画館での映画鑑賞」に関する調査より)そして、同系統の作品が複数登場してもあまり問題にならないのだろう。「感情」は基本的に、何度味わってもいいものだからだ。

 現実への期待が薄い代わりに作品内でそれを満たすという構図は、サブカルチャー界において長いこと存在してきた。女性への欲求がその最たるものだろう。だが近年にかけてオタク文化がより多くの人に広まって一般化の傾向を強めていることにより、その中身も少しずつ変わってきていると考えられる。
 それに関連することといえば、恋愛の描写が少ないことだろう。近年における若者の恋愛離れについては様々な意見があると思うが、それは創作にも影響を与えているのではないか。結果として、作品内の恋愛は、それを恋と認識しないような登場人物による、純度が高いものになっていると思われる。

 ここからはやや大きな話になってしまうが、私個人としては現代が「絶対性の希求」を行う時代と考えている。その存在に疑いを持たない(そもそも自然と日常に馴染んでいるため意識しない)うえ、全面的に依存しても構わないものは、宗教から科学へと移ってきた。しかしそれらの絶対性が揺らぎ、一方で自由主義が拡大した現代において人々は悩み多き人生を送るようになった。
 そのような時代において、頼れるものは自分の中で絶対的なままでいられる自己そのもの、そしてその中の感情になるのではないか。そして、感情は基本的に長続きしない。その感情の発露による閉塞感への反発は、必然的に刹那的なものにならざるを得ない。

 以上、近年の日本社会の閉塞と絶対性の欠如という2点を原因として、「セツナ系」の作品は人気を集めるようになった。こうした「刹那性」の重視は、「君の名は。」や「君の膵臓をたべたい」など少数の作品に留まっているわけではない。他にはどのような作品があるのか、そして今後どのようになっていくのか、考えてみたい。

(③は明日投稿)

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