才能は誰のものなのか

 題を見て何を言っているんだ、才能はその人のものだろうと考える人が多いだろう。

 才能というものの定義は難しいが、一般的な理解からすれば「持って生まれたもの」で、程度の差はあるにしろ生きていくうえで有利になることが多い。努力の成果と才能によるものを見分けることは難しいだろうが、才能の存在を否定する人は少ないだろう。

 才能を「持って生まれたもの」とすれば、それは生まれる家が裕福であったか/貧しいかによって生まれる格差の問題と、性質的にはあまり変わらないのではないか?

 この疑問が、出発点となった。

 貧富の差は一応教育により埋められる(そのために奨学金などの格差是正措置がある)が、才能の差を埋めることはできない。極論を言ってしまえば、運が良ければ良い人生を送れるけれど、運が悪ければいい人生は送れない、という形になる。これは不平等ではないのか?

 『正義論』を書いたロールズは、才能の有無は偶発的であるため、それによって生まれる所得や富は社会にとって「共通の資産」にするべきだ、と主張している。本人の希望に依らず、才能を発揮する道へ進ませる危険性はあるが、才能のもとに成功して多くの富を得た人から多くの税金を取るという意味では、ロールズの主張は現代でも通用しているといえるかもしれない。

 冒頭にも書いたが、才能を定義することは難しい。だからこそ、成功した人≒才能のある人から多くの税をとる。この時、才能は社会が一定程度所有していると言えるだろう。その程度をどのくらいにすべきかは、議論の分かれるところだが。この方法以外に、才能をうまく扱う方法はあまり存在しないだろう。

 しかし、現代はロールズの想像を超えてしまっていると、私は考える。例として、昨年物議を醸した佐々木朗希投手の件を挙げてみたい。

 佐々木投手は160kmを超える速球で注目を集めたが、昨年の夏大会では決勝に登板せず、チームは敗れた。登板を回避した理由のなかに、「才能があるんだから酷使させるな」という批判の存在があったことは想像に難くない。もちろん、その反対で「甲子園で見たいから投げてほしい」という声もあっただろうが。

 この現象、ロールズの主張を踏まえればややおかしく映る。才能はありそうだがまだ富を得ていない若者に、才能を持つがゆえの特別扱いを求めたのだ。特別扱いを受けた以上、佐々木投手はプロ野球の世界で成功し、特別扱いされただけの意味を示さなければならない。それは、重すぎる十字架ではないだろうか。そして重荷を背負わせながら、世間はその存在に無自覚なままでいないだろうか。

 佐々木投手が成功しようがしまいが、酷使を批判した人たちに直接の影響はない。強いて言えば、球速の日本記録という夢を見られるかもしれないが。このとき、才能は真に「社会のもの」となっていたのかもしれない。私的なものと考えられている才能を、多くの人が気にしていた。

 マスメディアやインターネットの発展により、才能が十分に発揮される前から、その存在が広く知れ渡るようになった。だからこそ、まだ結果を出していない才能までも、人々の期待を背負うこととなる。長生きしたとはいえ、ロールズにこれが想像できただろうか。

 最後に、本題に戻ってみよう。才能は誰のものか?個人のものとするならば、人が偶然によって成功するのを認めることとなる。社会のものとするならば、現代においては成功する前から特別扱いをしなければならない。その際は、「才能」の定義をし直さなければならないだろう。

 いったいどうすればいいのか、私には答えが出ない。これからも考えてみたい。

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