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現代サブカルチャーにおける"セツナ系"③-「綺麗」で「純粋」な作品たち-

①→現代サブカルチャーにおける"セツナ系"①-「君の名は」と「天気の子」

②→現代サブカルチャーにおける"セツナ系"②-その背後にあるもの-


一つ、「セツナ系」の流行を指し示す画像がある。まずはそれを見てみたい。
https://twitter.com/photo_okina/status/1268123125213917184

このツイートはすさまじい量の反応を得ている。しかし冷静に考えてみたいのだが、このような少年/青年時代を過ごした人が世の中にどの程度存在するのだろうか。実際のところ、創作においてよく描かれる「夏」というものを思い浮かべて共感する人が多いのではないだろうか。

そして、「あの頃の夏、僕達は無敵だった」という台詞である。「あの頃の夏」という非常に限定された、刹那を思わせるような短さ。そして、「無敵」という言葉である。その裏側には、現在は無敵ではない=閉塞感に巻き込まれているということを示しているのではないか。前述した通り、このツイートで描かれている少年時代が架空のものでしかありえないならば、閉塞感に対するものは絶対的で純粋な感情ということにならないだろうか。そしてそうした感情こそが、創作において最も強調して描かれているのではないだろうか。

 作品では、「感情」を疑似的に共有できればいい。その感情を持つ人物が失敗しようが、それはあまり大きな問題ではないのだ。大人になる以上、そうした綺麗なことばかり言ってはいられないということは、みな承知している。だが閉塞感を前に、純粋な感情を持って対抗する登場人物に自らを映し出すことで、人々は疑似的に満足していると言えるのではないだろうか。

 それでは、「刹那性」を体現している他の作品に触れてみたい。最近若者層を中心に人気が高まっている「ヨルシカ」である。

「ヨルシカ」の楽曲を作成しているのはボーカロイド楽曲を制作していたn-buna氏であり、サブカルチャーとメインカルチャーの境にある存在と言ってもいいだろう。


 彼らの作品の特徴としては、悩める少年少女の社会に対する叫びと見ていいだろう。そして、恋愛の要素は非常に少ない。「君」という言葉はよく出てくるのだが、ラヴソングは全くと言っていいほど存在しない。学生から20代を主な客層にしていると思われるにも関わらず、である。
そしてボーカルを務めるsuisの声は、いかにも純粋そうな、透明性を持ったものと私には感じられる。
 ここまでくればもうお分かりだろう。彼らは透明な、純粋さを感じさせる声で、「大人」という子供にとってよく分からないものへの不満を歌う。しかし、その不満は決して明確なゴールを持たない。恋愛の要素も含まない。だが、その純粋さの現れた感情を代弁することに需要があるのと考えてもいいだろう。

 「ヨルシカ」は一例に過ぎない。私はあまり詳しくないが、「ずっと真夜中でいいのに」など、類似したバンドも似たような曲調をしているようにも思う。また、「君の膵臓をたべたい」以降増えてきているように感じられる、サブカル的な絵が表紙の小説(個人的には、「いなくなれ、群青」シリーズなどはセツナ系に含んでもいいと考えている。)もその一端を担っているかもしれない。そして漫画やアニメでは、やや前の作品になるが「四月は君の嘘」が該当するだろう。

 ここまで書いてきたことは、私自身の妄想にすぎない。しかしもしセツナ系なるジャンルがあったとして、それは今後どのようになっていくのだろうか。
 純粋さへの志向は、おそらくまだ続いていくだろう。だが、それは一種の逃避でしかない。人間は結局、刹那的ではいられない。そして、純粋なものは非常に綺麗なのだが、逆にきれいすぎるがゆえの気持ち悪さのようなものが潜んではいないだろうか。「綺麗」と思うか、「気持ち悪い」と思うか。そこの判断には、純粋さを楽しむための年齢制限のようなものが潜んでいると思う。


 社会の閉塞によって生み出された「感情」への希求、「純粋さ」への渇望。そして、それがサブカルチャーに与える影響。今回は妄想に過ぎない話だが、いつの日かもう少し精緻な説にしてみたいと思っている。

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