“ことば”とネット社会における「身体性」

 最近、些細な言葉の間違いを目にする機会が増えた。「しづらい」と「しずらい」であったり、「ずつ」と「づつ」であったり。動画の字幕、SNSでの発言、数え上げればキリがない。大学の授業で共有する資料に入っていたときは、それでも国立大生かと思ってしまったけれど、あれどっちだっけと考えてしまった機会が私にもない訳ではなかった。

 伝わればそれでいいじゃないか、という主張に一定の理があるのは理解できる。しかしその一方で、私には言葉に対する繊細さを失ってはいけないという思いがある。

 なぜ、私がことばに「うるさい」のか。それは「守り人」シリーズなどで有名な、作家・上橋菜穂子さんのファンであることと関係している。

守り人シリーズをはじめ、上橋さんの作品は児童文学のジャンルに属している。児童と聞いて何を連想するかは人次第だが、一般的には小学校の高学年あたりがターゲットとなるだろう。とはいえ、私を含めて大人の読者も多いのだが。

 児童文学は漢字にふりがなを振り、難しいものは平仮名に直して記載する。読者層を考えれば当然のことだ。しかし、上橋さんの文章は一見、奇妙に思えるのだ。

 手元にあった『神の守り人』上巻を開いているのだが、第一章の最初のページだけでも首をかしげたくなる部分が多い。そもそも、一行目の「薬問屋」にはふりがなすらない。また、漢字と平仮名の併用も多い。「向こう側」は「むこう側」であり、「踏み入れる」ではなく「踏みいれる」が使われている。そして、そこまで難しくない漢字を平仮名のみで記載することが多い。例を挙げるときりがないのだが、「めあて」「たちならんでいる」「ふしぎ」「めずらしい」「いっしょ」などである。

 どの状況でも同じ使い分けがなされているのか、明確な基準が存在するのか、そこまでは調べたことがないので分からない。名詞は難しくても漢字のみのことが多く、感情や形容に関する言葉は平仮名が多い気はするのだが。

 ここで考えてみたい。「向こう側」と「むこう側」、「不思議」と「ふしぎ」、「珍しい」と「めずらしい」は、全く同じ表現だろうか。正直な話読んでいる人の感性次第ではあるのだが、少なくとも私のなかでは違う。前者に比べ、後者は人々の感性により訴えかけ解釈を自由にする側面があると思う。

 平仮名と漢字の使い分けに関して言えば、一般的によく使われるのが一人称だろう。「僕」なのか「ぼく」なのか、あるいは「ボク」か。文字ではなく音声としてあらわれる時も、感覚的に違いが意識されているだろう。

 「ずつ」と「づつ」、「しづらい」と「しずらい」。この文章の最初に挙げた誤用だが、こうした些細な部分から言葉の持つ機能が失われかねないと、私は思っている。


 さて、ここで身体性の話に移りたい。ネット社会において、平仮名と漢字を使い分けるような情緒が発達しうるだろうか?

 あくまで仮説ではあるが、私は人間が言葉を紡ぐ際、平仮名やローマ字(「わたし」や「watashi」)をまず連想し、一度脳内で落ち着かせてからより良くなるような変換を行うのではないかと考えている。脳科学などには全く詳しくないので、それが意識的なものか条件反射的なものかは分からないのだが。この1拍挟む段階こそが、身体性の関係する部分だと思うのだ。

 しかしネット社会においては、予測変換から逃れることは難しい。言葉を紡ぐ際の最初の連想とともに腕は動く。ここまではこれまでと変わらない。しかし、予測変換は脳内で一度落ち着かせる余裕を与えない。そのため、どこか感情が抜け落ちた文章になってしまうと思うのは私だけだろうか。

 もう一つ、意味はやや違うものの言葉にまつわる身体性の話をしたい。対面での会話において無意識に感じ取るもの(表情、ジェスチャー、口調=空気感)の重要性が、ネット上のコミュニケーションが拡大した現代において、低く見積もられている気がするのだ。

 このことは、ネット上で誹謗中傷が多くなる理由に関係していると考えたい。そこまで本気度の高くない罵詈雑言が空気感を伴わないまま伝わり、(空気を共有できるような間柄ではないのだから当然だが)それを字面のみで解釈する受け手は傷ついていく。そもそも字面だけ見れば人々を傷つけるような言葉が世の中に蔓延している状況に違和感を覚えもするが、それはひとまず置いておくとしよう。ここで大切なのは、何らかの共通前提を持つことが望めない対話に意味を見出すのは難しいということだ。

 もちろん、この問題は情報の受け手にも関係する。明らかに空気感を共有できない、あるいは許容できない暴言を受けた場合、食事をしたり、歯を磨いたり、布団にこもったり、そういう日常的な営みをしている片手間にSNSへ投稿した内容だ、と考えれば楽になるのではないか。そうした事情を推し量るべきとは言わないが、物事を楽に考えるきっかけになると思う。

 自らの思考によって作り出す情緒と、身体性を伴う相互理解の喪失。こうしたネット社会におけるコミュニケーションの変化に人々はどれだけ自覚的で、それに応じた新たなスタイルを目指せているのだろうか。

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