サブカルチャーが失われるとき-極私的サブカル論

 大学3年生になって3カ月が経過しようとしている。オンライン授業の忙しさにも慣れてきたので、今後ちまちまと文章を書いていきたい。


 今回、題を「サブカルチャーが失われるとき」としたが、これはコンテンツ自体の消滅を意味しない。これまでサブカルチャーとみなされていたものが、サブカルチャーでなくなっていくという意味合いである。細かい部分は、これから説明していく。

・そもそもサブカルチャーとは
 「サブ」カルチャーが存在するならば、当然メインとなるカルチャーも存在するはずだ。このメインカルチャーは近代において万人の「教養」=ハイカルチャーを意味しており、そうした既存の文化に対する反発から、カウンターカルチャーが成立したとされる。カウンターカルチャーはベトナム反戦運動や公民権運動を契機として発生(ヒッピー文化などが特徴的か)し、まさにメインとの「対立」が目立つ構図となっていた。

 しかし、時代を経るごとに対立軸が失われていった結果、「カウンターカルチャー」は「サブカルチャー」へと変異していく。「共栄」はできないまでも「共存」はできる、そうした流れの中で、日本においてサブカルチャーはオタク文化と結びついたものとして、社会の中でメインカルチャーとの住み分けを達成していく。


 そのサブカルチャーが近年また新たな形に姿を変えてきている、私はそう主張してみたい。それ自体を良いとみなすか悪いとみなすかは判断の分かれるところだが、私自身はその流れに危機感を抱いていると付け加えておく。

・メインカルチャーなき時代で
 ここでは、サブカルチャー=オタク文化、メインカルチャー=一般大衆の文化と2つに分けて考えてみたい。


 題に書いたようなメインカルチャーの消滅については、読者の方も実感できるのではないか。具体例を挙げるならば、平成最後となった2018年の年末に行われた紅白歌合戦でサザンオールスターズがトリを務めたことが挙げられるだろう。平成という時代において、メインカルチャーは国民の多くを熱狂させられるようなコンテンツを作り出すことができなかったのだ。野球中継や大河ドラマなど、以前は人気のあった題材も視聴率は低下する一方である。


 こうした現象の原因には何があるのか、はっきりとはわからない。学問上の話ではリオタールによる「大きな物語」の終焉を応用できるかもしれないし、もっと単純に多様化の進展・娯楽の増加に求めていいかもしれない。


 だがこうした現実とは裏腹に、人々は半ば概念化した「メインカルチャー」の存在を実感してはいないだろうか?具体例はないものの、これまでメインカルチャーだったもの(とそれを発信するメディア)に対する人々の評価は、実情と離れてそれなりに高いままなのではないだろうか。


・サブカルチャーの発展
 衰退するメインカルチャーとは対照的に、ここ20年ほどサブカルチャーは発展を続け、一般に受け入れられるようになった。オタクになって7年ほど経った21歳の私も、実感することが多い。サブカルチャーが一般に受け入れられるようになったのは喜ぶべきことだが、しかしどこかに違和感が残っているのも確かである。


 違和感の正体については、最近なんとなく分かってきた。サブカルチャーが、サブカルチャーらしからぬ形で発展しているということに帰結するのではないだろうか。


 一般に受け入れられる前のサブカルチャーは、対象となる層が限られているが故に尖った発展の仕方を取っていた。市場規模が狭いならば少しでも目立つ作品を作り、外にいる層を取り込んでいくほかない。この形態により、アニメ・ゲーム・漫画などサブカルチャーは様々なジャンルを作り出した。アニメで言えばセカイ系・日常系・萌え系など、音楽で言えば電波系などが象徴的だろう。


 しかし一般に受け入れられれば、商業的な方針は変わってくる。多くいるサブカル受容層の中からどれだけ引き付けられるか、それが目標ならば必然的に作り手は守りに回る。具体例はいくらでもあるだろう。


 これは一定の人気が出たコンテンツの宿命なのかもしれない。しかし、守りに入ったメインカルチャーがいかに衰退してきたか。ある程度の市民権を得たとしてもオタクカルチャーはメインにはなりえないし、万が一なりえたとしても現代においてメインカルチャーの持つ影響力と同等にまでしかたどり着けない。


 だとするならば、サブカルチャーなりの発展というものを志向するべきではないのか。徹底的に「サブ」ならではの尖り方をすることが、往時のメインカルチャーを超える唯一の手段ではないのか。このままではサブカルチャーそのものが形骸化する、その思いで「サブカルチャーが失われるとき」という題を付けた。

・おわりに
 ここまでの話を受け入れられた人も、そうでない人もいるだろう。サブカル界の老人が昔を懐古していた意見だ、ということも言えるかもしれない。それはそれで構わない。


 私にはまだまだサブカルチャーにおいて書きたいことがある。「君の名は」と「天気の子」は何が違ったのか、「君の膵臓をたべたい」はなぜ伸びたのか、今のサブカル界においてどの要素が伸びているのか。今後とも書いてみたい。

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