「観る」将の増加は何をもたらすのか?

 近年、ネット中継などで将棋を「観る」人が増加している。ABEMAなど中継媒体が増え、プロ棋士による発信が増加し、最近では観る将向けの読み物も多くなってきている。幼いころから将棋をやってきた身として、尊敬する人々が社会的に評価されるようになってきたことは、率直に嬉しい。

 しかし一方で、こうした現象が全面的に良い影響をもたらすわけではないのではないか、と思うようになった。なぜならば、「観る」行為は一方で「観るに値しない」ものを生み出すからだ。簡単な例を挙げれば、プロ棋士であっても強くなければ注目を浴びることはない。そして、個人的に最も気になるのは「competitiveなアマチュアプレイヤー」の減少である。

 藤井聡太(現二冠)という天才の登場は確かに、将棋界を盛り上げている。プロ棋戦は増え、スポンサーは増加し、世間からの注目も高まった。
 プロを目指す子どもたちの環境も整備されつつある。子ども大会は一昨年くらいから増えたように感じるし、教室も含めて人口が増加し、研修会も各地への整備が進んでいる。
 エンジョイ勢・女性を対象とした大会も増えた。どれも、とてもいい動きだと思う。

 この動きに唯一取り残されているのが、(competitiveとは言わないまでもenjoyではない)アマチュアプレイヤーではないか。大会の数は増えず、コロナ禍の影響もあるが各地の道場は潰れ(そもそも営業形態として限界という話もある)、将棋専門誌でもアマチュア大会の扱いはここ数年来良くはない。

 とはいえ、前述の通りこうした状況は「観る」層の出現によってのみもたらされたわけではない。私はあくまで、構造的にこの現象が起きているという話がしたい。原因は以下の2点があると考えている。


① 「競技」性の強調

 ブーム以前、将棋を「観る」のはあくまで「指す」ことをメインとする人の行為であった。それが「観る」ことが中心となることで、競技性が強調されることとなる。これは、将棋がeスポーツになぞらえて語られることが象徴しているだろう。しかしこのとき失われるのは、将棋の「ゲーム」としての側面である。アマチュアプレイヤーはゲームの延長線上に競技を見るが、観る将は観客として競技を見るのだ。
(羽生九段は以前、「将棋はゲームである」という発言をしていたが、発言の趣旨としては違ううえ次元が違いすぎるので、ここでは触れない。)

 観客として見る「競技」であることで失われるのは、「連続性」だ。プロ棋士の凄さを強調するほど、プレイヤーにとってはより遠い存在となっていく。プロ野球で無責任なヤジが飛ぶように、ゲームをあまり理解しない(その意欲のない)層が増えていくのだ。将棋はもちろん、野球も実質的な年齢制限が設けられている。自分では目指せない(理解できない)存在であるという前提が成立しているのだ。

 まとめると、「競技」というロールモデルを自然なものとして捉える人は、自ら強くなろうとする「ゲーム」として捉える層と違い、enjoy層に留まる。なぜならば、いくら努力しても競技レベルに辿り着けないからだ。


② 「指す」楽しさは「観る」楽しさに勝てない

 将棋界を紹介する情報が増え、ソフトの評価値など「観る」楽しみを支えるものは整備され続けている。プレイヤーに感情移入できる要素が増えることで、competitiveにやっている気分が「コンテンツ消費」によって味わえるのではないか、というのが2番目の指摘だ。

 少し前に野球との比較を行ったが、アマチュア目線で言えば差はかなり大きい。たとえば高校野球はプロ(=競技)に繋がるが、将棋はそうではない。どこかの記事で述べられていたが、手に入るのは名誉のみなのである。そのわりに努力を必要とするから、指すことにメリットを感じられないのも仕方がないのかもしれない。

 そもそも論を使ってしまえば、将棋は難解な完全情報ゲームであるがゆえに「勝っても相手のミス、負けたら自分のミス」という状況になってしまう。自己否定をどうしても伴ってしまうために、ストレスの多い現代社会ではより気軽に楽しめる「観る」ジャンルが好まれるのだろう。

 とはいえ、資本主義のなかの商品としてある程度注目が集まればこうした形になってしまうのは自然なことともいえる。実際、いくつかのスポーツ界を想像してもらえれば、将棋界が今後どうなっていくのか想像ができるかもしれない。

 ここまでかなりネガティブに書いてきたが、私はcompetitiveなプレイヤーの減少に対し何らかの手を打ちたい、と思っているわけではない。そもそもそんなことは不可能だ。観る層のほうが人数も、需要も圧倒的に多い。アマチュアのコミュニティはあまりに脆弱であり、学生将棋部なども一部を除いてenjoy勢の入部が増加して高いレベルを目指す空間は失われていくだろう。

 しかし、10年以上前に言われていたような将棋文化自体の衰退という可能性を考えれば、現在の発展度合いに文句など言っていられない。だから私は「観る」層への拡大を不可避なことと考え、そうした変化に多少の違和感を覚え、(その他の要因のほうが大きいが)時代についていけない自己も見つけて将棋界から離れることとした。この文章は文字通り最後っ屁なので、ここまで読んでくれた方はそう思う人もいるんだなあと思ってブラウザバックして頂ければと思う。


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