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金魚鉢のヒーロー

時々「ウーマンエキサイト」の夫婦バトルものを話題に出しているが、近頃ブラウザのトップページによく出る「モラハラ夫図鑑」は、「あるある」満載で面白い。妻があっさり離婚届を突き付ける結末が多いのには、時代の変化を感じますね(年寄りであることがバレバレ、HaHa)。我々の世代には、子連れでいい仕事もなさそうだし」「やはり父親がいないと世間体が悪いし」でずるずると夫婦を続け、離婚しても後ろめたい気分で生きていく、という湿っぽい展開が多かったが、「これで開放された」と笑える女性が増えたのは喜ばしい。

一方でモラハラは弱体化した、ように思う。これもいい傾向であろう。「自分がしてきたことに気づかなかった」「反省してやり直そうとするが」という気持ちが本物であれば。DV/モラハラの改善プログラムに「大切な人を傷つけないために」というスローガンがあるが、配偶者を「大切な人」と思えるようであれば程度は軽い。「悪意はないのだけど、毒親に蔑まれて育ったから気に障ることがあると感情の爆発が抑えられない」という例をよく見るが、「抑えられない」ならば「抑えたい」と思っているだろうから希望が持てる。本当の「DV/モラハラ」はその「抑えられなさ」を財産にしてしまうのが問題なのだから。

先日読んだネット対談で、著名な心理学者が「モラハラ夫は相手に心があることが分かっていない」と言っていたが、これはどうだろう?(私自身が多分にASDの気がある人間なので経験があるが)「相手に心がある」ことが分かっていない人間の言動は無神経ではあれ、意図的にそうしているわけではないので、学習によってある程度は矯正できる。「こちらに悪意はなくともこういう言い方をしたら他人はあなたに悪意を持つ」ということを痛い目に遭って学ぶなり、親切な人に教わるなりすれば、あからさまに不快感を与える言動をしないように注意するようにはなる(ラクじゃないけどね)。第一、「相手の心」が見えないから「ハラスメント」をする意味がよく分からない。

というわけで、私は昔から「ボスキャラ」にはよく睨まれた。クラスや職場のパワーバランスが見て取れず、強い人の意向を察して気の利いた動きをする、ということがどうしてもできない。よくあったのが、「ボス」が排除しようとしている人間と楽しく話をしてしまうとか、さりげない自慢話をそうと分からず、持ち上げなければいけないところを正直な感想を言ってしまって引かれるとか。今でもどうしても分からないのが、なぜ他人が嫌いな人間を自分も嫌わねばならないのか、である。自分自身、理由は分からないが嫌いで嫌いでたまらない人間は結構いる*。ただ、彼ら彼女らが、例えば自分の親友と仲良くしていても邪魔する気にはなれない。なるべく同席しないようにはするだろうけれど。

「人の心が分からない」故の無防備さは「パワハラ」や「モラハラ」、時には身体的暴力に巡り合いやすいのでしょうね。20代半ばのころ、最初に勤めた会社の上司は典型的なパワハラで、それを自慢していた(まだそれが問題視される時代ではなかった)し、30代にはモラハラ暴力対応に翻弄された。それでも、そういった経験で「打ちのめされない」のは、(多分)ASDの強さで、空気を読めない鈍感故に、彼らの攻撃に傷つくより先に、なぜこの人たちは「(他人が自分を特別に大事にしてくれないが故に)傷ついている自分」がそんなにも大切なのだろう?という疑問が先に立つ。以下、長くなるが2例。

1)パワハラ編
「ハラスメント」を行う人間の共通点として自分が感じたのは、「非合理」「非効率」である。彼らの中には、理系教科が得意とか、IT関係に強いとかで、「論理思考」が身についている、と自負する人間が少なからずいる。パワハラ上司も何かというと「お前たちが何を言っても論破してやる」と言っていた。例えば、私のような不器用でカンの悪い人間がファイルの綴じ方やコピー機の使い方が分からず右往左往しているときに、「こんなことを人に聞くんじゃねえ」と迷わせたうえで、「学歴があるのに得たのは知識だけで知恵がない」(事務系の知恵がないから学校で習えることを習うしかなかったんですが…)とか、長々と説教する。これは時間の無駄じゃありませんか?「バカだねえ」と笑われるのは当然としても、誰かに「教えてやれ」と言えば3分で済むことを、と言ってみたら爆発された。「だいたいこんなとこでミスするのはもはや人格の問題なんだよ!人がそこで「指導」してやってる気持ちがわからねえのか!」

これは「論破」だろうか?

仕事はできる人だったし、それを慕って取り巻きになる「できる人」たちもいたが、部下を「できる」/「できない」で差別し、「できる人は仕事場でサンダルを履いても、暑い日にうちわを使ってもよい」/「できない人間は冬に足元に電気ストーブを置いたり、勤務中にコートを着ていてはいけない(私は極度に寒がりで、これは耐えがたかった)」って、中学校のクラスカースト?職場である以上、仕事ができる/できないで給料や地位が違うという意味での「差別」は当然である。私がそこで、「できない」の典型であったことも確かではある。が、こういう「ブラック校則」で部下のモチベーションが上がるのか?

彼はよく、「お前、こんなに人を傷つけて感情的になっちゃいけないっていうの!」と「できないグループ」の誰かを怒鳴りつけていた。何に傷ついていたのか当時は分からなかった。今にして思えば、部下が何かができないと自分の責任になる、という上司の立場を考えずにミスをする鈍感さに傷ついていたのか、と思う。が、その多くは、(自分の場合は)OSの設定がマニュアルを見てもよく分からないとか、ワープロソフトのインストールが途中で止まったとか、「できる先輩」に相談すればすぐに教えてもらえることだったような気がする。が、「下手な質問で人の時間を奪うな」という雰囲気が蔓延していたので、「できるグループ」には近づきがたかった。

最後は入力ミスがきっかけで、「お前、怒られたことある?(枚挙にいとまなくあります)。こんなミスをしたらクライアントが不愉快だって、そういう想像力に欠けた人間に育てた親の顔が見たい(ちなみに、彼は自分の子供には「間違いにはとにかく怒って記憶に残るようにする」と言っていた)**」と激昂されたので、こちらも感情的になって辞表を出す羽目になった。

第三者として見ると、彼は「傷ついている自分」をアピールして人に罪悪感を抱かせるのを楽しんでいたように思えた。彼にとっては、「感情的」になって部下を威圧することが自分を開放することで、仕事場は「開放」の場だったのだろう。

2)モラハラ編
もう一つは、既に何度も記事にしているが、親戚の「繊細な」高学歴難民である。30代に数年間世話をする羽目になったが、小学校入学時の知能指数が170あったというのが自慢で、理系教科のできる人である。私はいわゆる「理系」ができたのは中学のときだけで、高校では物理8点の記録があり、その彼からは「アタマが悪い」と蔑む理由にされている。

ところで、私は青年時、「ボスキャラ」に睨まれると同時に、いわゆる「ボーダー(境界性人格障害)」にも引っかかりやすかった。「人の心が読める」人なら、すぐに危うさを察知し、初めから距離をとるところを、何の気なしに「ちょっとした親切」で話を聞き、問題解決に手を貸してしまったりする。が、この「ちょっとした助力」がアタマの中で「身も心もすべて捧げる」に転化するのがボーダーの人々の特徴で、親切の線引きが通用せずにしつこく絡まれて習い事の教室を移ったり、電話番号を変えたりしたことがある。

一般化できるかは分からないが、今まで出会った「ボーダー」はいずれも幼少時の知能指数が高かった。が、成長するにつれてその効力が薄れていったことに焦り、「本来の優秀な自分」を認めてくれる(と当人が思える)他人にしがみついては逃げられ、を繰り返すうちに精神に不均衡を来す、という傾向があったように思う。

我々の世代の6歳児「知能指数検査」は年齢の平均を100とした場合、計算能力や言語能力が何歳上下しているか、を測るもので、大人に通用するものではない。測った時点では学年の初めに生まれた子供、また長子や一人っ子より第2子以降のほうが有利だったはず。が、数年経って生まれ月の差が目立たなくなったり、自分の意思で勉強する同級生が増えたりすれば、おのずと差が縮まっていくものだっただろう。「20歳過ぎればただの人」になるように仕組んであったわけで、「ただの人」に着地できずに「幼少時はこんなに可能性があったのに○○のせいで…」というのは滑稽に映る。

○○に入る典型は「親による虐待」で、出会った「ボーダー」は例外なくこれを引き合いに出した。真実かどうかは、例えば本人の親に聞いてみたとして、真偽どちらでも否定するであろうから確かめようがない。「高学歴難民」の彼も言い争いで形勢不利になると、必ず「父親の虐待によるトラウマ」で相手の口を封じた***が、自分の見るところ、「トラウマ」はともかく、事実関係にはかなり誇張がある。私は彼の父親をよく知らない(昭和一ケタ世代の父親の常で、家を外にしている時間が長かった)が、母親にはたいへん可愛がってもらった。彼女は傍から見て気の毒なほど人がよく、夫には従順であったが、息子がいじめられるのを黙って見ていられるような人間ではなかったと断言できる。私がその息子に苦い思いをさせられつつ、損を承知で数年間世話係を続けたのも、彼女が「憧れの母親像」で、その頼みを断れなかったというのが一因である****。

さて、この彼も自称「論理的」で、「点」的に見ればそれは正しい。が、時系列を追うと、これは論理学の初歩で習う「真理関数」で、「前提が偽であれば結果はすべて真になる」というものじゃないか?という気がした。例えば、妻の妊娠・出産に関しての経緯。
・妊娠に気づいたとき、「経済的に厳しいから中絶するか」と産婦人科に相談に行く。気づいた時期が遅かったため、中絶にはかなり大がかりな手術が必要で費用も高い。それを聞いて、「やはり生むことにしよう」と配偶者同意を撤回する。
・妻のお腹が大きくなるにつれ、「子供が生まれたら金がかかるのになぜ妊娠した、なぜ中絶しなかった」と責め立て暴力を振るう(「腹だけは殴らないでいてやった」と自慢)。
・生まれてみると可愛いの一辺倒で写真を知人に送り付け自賛する。妻に対しては「子供の世話が下手」という理由で心身への暴力を続ける。妻が「世話下手」の非難に対して、「自分はフルタイムで働いていて通勤時間も1時間半かかる。夫は仕事も続かないし、帰ってくれば家がゴミ屋敷になっている。子供が保育園にいる間、酒を飲んだり女遊びしていないで働くか、気まぐれでなくコンスタントに家事を負担してみたうえで「上手に世話」できるかやってみて。」と反論すると、「お前に共感力がなくて虐待のトラウマを理解してくれないから遊ばずにはいられない。第一お前はおれが子供を「特別可愛い」という気持ちを理解せず、そんなに可愛くないとか、犬みたいとか言う。虐待だ!」と逆ギレするのが常であった。(妻は結局、「子供が可愛いと口では言いながら、私が稼いでくる子供の食い扶持を暴力で奪ったうえ、虐待者扱いするような人間には共感しようがない」と子供を連れて逃げた)。

この展開で前提が「偽」だというのは、彼が自分の感情に合わせて、論点をその場その場で変えているように思えたからである。胎児を含めて生物は自分の意図に合わせて出たり消えたりするものではないから、一旦生むと決めたら「いることを前提」に生活を構築しなければならないのに、自分の意思で「子供のいる生活」と「いない生活」が転換できる、というか自分のために他人はそうしなければならない、と主張できるのはなぜなのか?

「子供の可愛さ」については、自己顕示のような気がした。「子供」が思うように消えてくれなかったので、周囲の目を考えて「良い父親アピール」に方向転換したのだろう。妻が、「保育園の他の子と比べて際立って可愛い顔立ちではない」「転げまわって遊ぶ様子が子犬に似ている」というような意味で行った言葉をことさら子供を貶める意味と解釈したのも、「虐待から子供を守るヒーロー」のほうが自分が映えるからではなかっただろうか?

本当に子供が可愛いのであれば、多少汚い手を使ってでも子供を引き取って育てるであろうが、不思議なことに離婚時の裁判では親権も面会権も求めず、慰謝料や養育費を払わないで済めばいい、ということで決着がついた。当時同棲していた女性との甘い生活に夢中で、赤ん坊の面倒を見ることは考えなかったらしい。その後彼は、何人かの女性を渡り歩いた後実家に帰った。結局定職に就くことはなく、両親も亡くなった今は何をしているか不明である。私の元には、時々窮状を訴える手紙が来るが、一切無視している。既に成人した子供宛てにもよく「被虐待者としての共感を求める」手紙を出しているが、なぜか住所が書いていないという。


3)で結論は
ハラスメント体質者をテーマに、批判めいたことを書き続けたが、自分ながら意地が悪過ぎたか、と気分が悪くなってきた。彼らは例えば計画犯罪を練り上げるタイプの「悪人」ではない。おおむね社交的で外見や礼儀作法には気を遣うので、浅い付き合いなら感じのよい人で通る。知性があり話も面白い。「地雷を踏む」ことを回避できる人であれば、愉快に付き合える相手であろう。そういう意味では、私のように無意識に他人の地雷を踏みまくる人間のほうが悪い、と言われても仕方がない。

おそらく彼らが私にとって理解し難い存在であるのは、彼らが、「人に優れた存在と見られたい」という願望が非常に強いのはいいとして、それが人を見下すことで得られる、と思い込んでいるところだろう。

パワハラ上司には「ダメな部下」が、モラハラ夫には「家事育児のできない妻」が必要なのである。親子関係などでは、これがよく「過剰な期待」と誤解されるが、ここは注意すべき。彼らの存在は相手が常に「ダメ」であることに支えられているのであって、相手がいくら努力してスペックを上げても、「ダメ」という評価を変えることはない。変えたら自分の優位性が崩れてしまうから。

「人を攻撃する人間は自己評価が低い」という精神科医の言説を、「えっこれだけ偉ぶってるのに?」と思ってきたが、やっと腑に落ちた。

さて、「ハラスメント」という行為に伴う「視野狭窄」の比喩的なイメージとして浮かんだのが「金魚鉢」である。ハラスメントを行うほうの金魚は、外の池なり水槽なり、より広い住処に他の金魚が出て行かれると困るので、「威力妨害」をするわけだが、それは彼らがしばしば主張する「論理性」「能率の良さ」と矛盾する行為ではないか?

例えばパワハラ上司に退職願を出したとき、「お前みたいなクズを雇ってやる場所なんてねえよ!オレ以外に我慢できる人間がいると思うなよ!」と怒鳴られた。このあたり、「おれじゃなきゃお前みたいなダメな妻を養ってやれない」というモラハラ夫と同じである。しかし組織の論理では、ダメ社員をダメのままにしておくのは経営上損失だし、何をやってもダメならあっさり切るほうがいい。一幹部が「自分の温情でダメ社員の給料を確保してやっている」ことが通用するようでは、営利団体としての会社が機能不全に陥る。

後で聞くと、私が出来ずに延々と悩んでいたような問題は、ある程度研修体制が整った企業であれば初期研修でクリアさせるか、業務上必要であると申請すれば外部セミナーに行かせてもらえるということであった。そういう意味では、あの会社そのものが「金魚鉢」であったと言えなくもない。

私が「ハラスメント改善プログラム」に違和感を覚えるのは、加害-被害とか、他者の立場に立ってとか、成育歴とか、「他者への感情の制御」が主テーマになっていて、ハラスメントをする人間の自我の在り様がどうか、には突っ込んでいないように見えるからである。
私としては、まずこう言いたい。

いつまでも金魚鉢の中にいたいのか?

これは比喩だが、平たく言えば、「器が狭いゆえに伸びしろのない人間でいたいのか?」である。会社組織といった場であれば、「エリート」でもハラスメントをする人間はある程度で出世は止まる。告発されるとか上に注意されるとか、そういうアクシデントがなくても、新しい事業を拓いていく力を止めてしまうからである。

私が長年勤めている財団は、いわゆる「天下り」先で、トップの三役はだいたい中央官庁か関連大手企業からの再就職である。私のような万年下っ端でも時々は話す機会があるが、世間では揶揄されても、大きな組織で「天下り」できるレベルまで行ける人は、才能や運に恵まれたのは無論、やはり度量が違う、と感じる。具体的には、

・仕事のプロセス管理や結果には厳しくとも、人格攻撃は絶対にしない。
・相手の地位の上下を問わず人の話をよく聞き、長所を見つけるのが得意
・好奇心が旺盛

なので、下っ端のアイディアでも「それ、面白いね」というものがあれば、気軽に人を紹介したり発表の場を見つけてくれたりする。彼らが家庭内でもそうかは分からないのだが、「金魚鉢の中で酸欠に陥っている」自覚のある方々には、家の内外のどちらでもこの真似が療法の一つになるかも、と期待してはいる。

*NHKの植物学ルポで、虫に食べられた葉が、虫が嫌う物質を出すように周りの葉に信号を出している、というものがあったが、人間にも何となくの「好きオーラ」「嫌いオーラ」はあるようだ。「ボスキャラ」に睨まれる、というのも、会ったときの雰囲気で「何か苦手だな」とこちらが感じているのを向こうも察知しているからなのだろう。反対に「好きオーラ」でいうと、学生時代に初対面で好ましく感じ、「もしかしたら…」とはかない恋愛妄想を抱いた異性が何人かいた。自分でもそれは妄想であることは十分承知しており、数日たつと浮ついた気分は消えて普通の友達として意識するようになった。が、卒業してから数年経って再会、再び友達付き合いが始まると、「好きオーラ効果」が残っていたのか、その人達から120%の確率で告白された。その大半については、もうこちらの頭の設定が「友達」モードになっていたので、深刻に受け取らず、お互いが別の相手と結婚するまで「恋人未満」くらいでとどまったが、ホントの話。

**このあたり、明治生まれのファザコン娘幸田文の一連の随筆を思い出す。「娘が可愛いからこそ、どんな鬼姑にも負けないように厳しく仕込む」と父親自ら掃除の仕方などを教えてくれた、というが、その「厳しさ」を楽しんでいる父の姿にはやはりハラスメントの匂いがする。
パワハラ上司や毒親の攻撃に、「これが耐えられればどんな苦境も」と耐える人も多いと思うが、それは無駄である。仕事が難しくて悩むとか、明らかにこちらがミスしたときに相手を怒らせずにうまくフォローしてもらうように考えるとかはともかく、感情的な攻撃については、それこそ相手の個性によって千差万別なので、一人に対応できたから他の人にも、というものではない。
露伴が仕込んだのは技術だけではなく、旧来の「婦徳」というものであろうが、これ、苦手ですね。幸田文の著作を読むと、文章の上手さやストーリーの面白さは別として、「私はデキる女」という自己顕示がどこかに見えて気分が悪い。家に遊びに行ったとしたら、「さりげない気配り」があり過ぎて口もきけず、とはいえうっかり気を許したらそれこそ姑的お説教が飛び出しそうに感じられる。
同じ明治生まれファザコン娘でも、溺愛された生涯わがままお嬢さんの森茉莉は好きである。兄弟にとってはかなりモンスターだったようだけど(森類「鴎外の子供たち」ちくま文庫、1995年)。気難しいところはあるだろうが、気の合う間柄になれたら、部屋にだらしなく寝転んで、本や映画や音楽の話を勝手に言い散らして楽しめそうなところがいい。

***「虐待経験」を聞くのも度重なると、聞いたフリ(しないと暴力的になるから)して、心の中で「お前は幼稚園児か!」とツッコミを入れていた。
19世紀末の英国の少女小説「小公女」に、生まれて間もなく母親を亡くし、周囲が可哀そうだと甘やかした結果モンスター化した4歳児が出てくる。「お母さんがいない」というと我儘を聞いてもらえるので、何かにつけてそれを繰り返し、要求を拒まれると癇癪を起こすので、手を焼いた父親が寄宿学校に入れた、という設定。主人公の少女(7歳で!)が「私もお母さんがいないの。あなたのお母さん代わりになってあげるからいい子にしましょうね」で大人しくなるというエピソード。

ところで、「小公女」の入った寄宿学校の校長は一方的に悪者にされてますが、性格が悪いのはともかく、主人公が親を亡くして一文無しになったとき、弁護士の勧めで校内に住まわせて働かせる、というのは非道な措置とは思われない。私立の学校である以上、授業料が払えない生徒を置く義務はない。路頭に追い出すと非難されるというなら、普通は孤児院に入れるなり養子の先を探すなりするであろう。主人公の場合、父親が植民地に住んでいて、授業料や寮費の定期的な支払いができなかったため、校長がかなりの額を立て替えていたという事情があり、主人公の労働でそれを返す、というのは児童労働が禁じられていなかった当時としては非難さるべきものではなかったのでは?問題は働かされたことではなく、労働環境が(女中仲間も含めて)劣悪だったことである。なお、主人公は秀才で、数年後には助教になる見通しが立っていた。人間関係はともかく、教育関係の職に就くというのは落ちぶれた上流階級の娘として唯一の品位を保てる道であったから、校長もそれなりに主人公の将来を考えてやっていたと言えないこともない。

****彼の姉は素直に両親を慕っており、弟の「虐待経験」は精神科医の誘導であると主張していた。ちなみに、「モラハラ夫図鑑」の7話だったか、「自分に従わない妻は頭がおかしい」と妻を精神科医に連れて行く夫がいたが、彼も同じことをした。従来から自分が鬱と不眠で投薬を受けていたメンタルクリニックで、「人格障害」のカウンセリングを勧められたとき、「それは妻のほうだから彼女を治療してほしい」と主張した。同行した妻と話した医者が「治療の要なし。多少の不眠があるから軽い入眠剤だけでよい」という判断を下すと、「あんな医者より自分の方がアタマがいい」と主治医を変え、自分の好みの薬だけを飲み続けた。同じクリニックへ両親を連れて行ったこともあったが、短期間には結論が下せないということで、彼が望んでいた「虐待の家族療法」は行われなかった。

宮部みゆき「名もなき毒(文春文庫、2011年)」では、主人公が勤務するある会社の広報室に「有能な編集者」の触れ込みで入社したものの、実は全く編集実務を知らず、虚言を疑われると逆ギレする女性が登場する。彼女も「親の虐待」を何かと引き合いに出すが、主人公が両親に会ってみると、「ごく普通に、姉妹と分け隔てなく育てた」ということが明らかになる。この彼もそのパターンか?
確かこれがテレビドラマになったとき、小泉孝太郎が主人公を演じていたが、30過ぎても坊ちゃん気質の抜けない素直さをよく出していた。彼を俳優として「これは!」と思ったのは2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の平宗盛役である。トータルの出演時間は15分くらいだったと思うが、実に巧みだと感じた。壇ノ浦の合戦に敗れて鎌倉に護送される途中、政治音痴の源義経が、自分が後白河法皇に目をかけられているのは一族の名誉のはずなのに、兄はなぜ認めてくれないのか、と悩むのを見て、「自分にも腹違いの兄がいたが、離反しているように見えても心の底は通じ合っていたと思う。わだかまりを解くために正直な気持ちを手紙に書いてはどうだろう。文章の書き方が分からないなら代わりに書いてあげるよ」と持ち掛ける。がその手紙を見た頼朝は、「自分が後白河から恩恵を受けたら京と鎌倉のパワーバランスが崩れるということをどうして理解できないんだ!」と怒り、義経を鎌倉から追い出す。宗盛の提案が兄弟の離反を決定的なものにしたわけだが、これが軽率な親切心だったのか、頼朝の立場を理解したうえでのお公家さん的意地悪だったのかがあいまいなままで、そのあいまいさを演じきったのが素晴らしかった。

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門

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