ポーランド🇵🇱の旅(ショパンの生地〜ワルシャワ)
前回の記事です。
私たちのポーランド旅行は2019年のゴールデンウィークでした。7泊8日の日程です。
今回はグダニスクを出発してショパンの生家に立ち寄り、首都のワルシャワの観光までを書いてみます。
私達の旅行のインストラクターは若い日本の女性でした。若くてもよく経験を積んだ女性で、安心して任せることができました。また現地のガイドは日本語ができるポーランドの女性です。とても日本語が上手でした。
日本語ガイドについて私には面白い経験があります。このポーランドの話とは異なることですが、他に書く機会もありませんのでここで書いてみます。
ポーランドではなく、インドを旅行したときの話です。少しお付き合い下さい。
ポンディシェリ
インドの東海岸のポンディシェリに行った時の話です。
ポンディシェリはインドで唯一のフランス領土だったところ。フランスのニースのように海岸線にビルが建つとても美しい街です。この街に到着する二日前に日本人のインストラクターが私たちにこう告げました。
「私はどうしても急用ができて、デリーに戻らなければなりません」
デリーというのはニューデリーのことです。ニューデリーは新しい街でインドでは首都のこと普通デリーと言います。
私たちは「えーそんな!」言いましたが、プライベートなグループ旅行なのでこのインストラクターのに従うしかありません。
「日本語ガイドがすぐやってきますから、大丈夫です」
日本語ガイドいうのは、もちろん日本語ができる、そして現地語ができるガイドのことです。やってきたのは背の高い青年でした。私は彼に尋ねました。
「ポンディシェリに来たことあるの?」
「ええ、学生時代の修学旅行で……」
私は不安に思いましたが、広いインドではそんなものか思い直し、ポンディシェリの観光に出かけました。
ここで問題が起こったのです。
彼は現地の人とヒンズー語で話しているのですが、ポンディシェリの人はヒンズー語が理解できないのです。
ヒンズー語というのはインドの北部地方の言葉で現在は標準語になっていますが、インドはとても広いので、今でもインド各地でヒンズー語を話せない人がとても多いのです。
ですから、インド人同士が出会うと必ずハローと言って英語で話し始めます。彼はポンディシェリの人たちと英語で話して、それを、分かりづらい、つたない日本語で私たちに通訳をするのです。私は彼にこう言いました。
「それだったら私もお手伝いしますよ。あなたが英語を日本語にして話すのだったら、私が英語を聞いて日本語で話した方がわかりやすいでしょうから」
その後は、私が英語を日本語に通訳をして、彼のほとんどの仕事を私がしたのでした。
このことからわかることはインドのような大きな国では、その国の言葉が通じない国があるわけです。インドだけではないかもしれません。ヨーロッパの諸国でもその国の言葉は通じない地域はいくらでもあります。
日本語は特殊な言語です。他の国では日本語のようにその国の隅から隅まで伝わる言葉はないのです。
何から何まで日本語で完結している……
そんな国はひょっとすると日本だけかもしれません。
さて、ポーランドのお話に戻りましょう。
📌今回はショパンの生誕の地を訪れますので、ショパンの曲をたくさん散りばめてありますよ。
写真、動画はすべて私が撮影したものです。
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今回のnoteはグダニスクを出発して、ショパンの生誕の地、ジェラゾヴァ・ヴォラ(赤い印)に立ち寄り、ポーランドの首都ワルシャワの観光までを書いてみます。以下の地図で位置関係をご確認ください。
グダニスクのホテルの食事はとても美味しかったです。夕食は外で食べましたので、朝食だけホテルで食べましたが、いつもこんなに豪華な朝食が食べれます。
グダニスクはまさしく商人の町、お客様への接待は素晴らしいものがありました。
グダニスクを出発した後、世界遺産のマルボルク城に立ち寄りました。
ポーランドの王様は、異教徒を制圧するために、この地に当時最強と言われていた「ドイツ騎士団」を招聘しました。
現在に至るまで、この城は「ドイツにとって」東側から攻めて来る勢力の防衛の拠点となったのです。
第二次世界ではソ連軍が攻めてきたために、大きく破壊されてしまいました。
ご存知のように ローマ教皇になった、 ヨハネ・パウロ2世はポーランド出身 です。ですからポーランドは厳格なカトリック教徒が多いのです。
この城はヨーロッパの東にあるので、より東のイスラム教などの異教徒の国々から攻撃を受けました。近代まで、このマルボルク城が、西ヨーロッパ全体を守るための前線だったのです。
この城の歴史を調べてみましたが、とても複雑で大変でした。興味がある方はお調べください。
ポーランドのお城は、イエス・キリストのご加護のもとに騎士たちが守られているのです。ですから、城の中の一番重要な部分は教会です。この城もそのような構造になっています。
日本でも戦国時代に密教系の仏教が広がったのは、ご加護を得るためと考えられます。
城は高い壁で囲まれていて、中央は大きな広間になっています。
お城の中のレストランでランチを食べました。とても趣のある部屋でした。
観光地であるマルボルク城にはたくさんの子どもたちもやってきます。ポーランドの自動販売機です。明るくて素敵です。
ポーランドは農業の国なので、どこでもこのように広い緑地を見ることができます。
***
いよいよ、このツアーの大きな目的である、ショパンの生誕の地に向かうことになりました。
このツアーに母と娘の女性二人で参加している人がいました。私がどうしてこのツアーに参加したのか尋ねると
「ショパンの生地に行けるから」
と答えました。
「私は若い時ショパンが好きでね一生懸命練習したのよ。ショパンはいいよね、感情がこもっていて……」
お母さんはそのように私に話してくれました。
娘さんもその話を静かにうなずきながら聞いていたのです。
このお母さんと娘さんがどのような生活をしてきたのか、私には分かりません。
しかし、「ピアノがあり、ショパンがいる」という環境が、 お母さんの生活の支えであったでしょうし、この家庭の生きがいであったのかもしれません。
お母さんは、悲しい時、苦しい時、ショパンのノクターンを弾いたでしょう。
娘さんは、お母さんが奏でるショパンを聴きながら、目が潤むこともあったでしょう。
あるいは、娘さんが母親に反発した時もあったでしょう。母が娘をうとましく思うことがあったでしょう。
ショパンが、そんな時、「音で」離れそうになる心と心を結びつけていたのです。なんと素晴らしいことでしょう。
📌ショパンのノクターンをぜひお聞きください。
📌フジコ・ヘミングのノクターンもぜひお聞きください。
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📌ポーランドはショパンの国なのです。
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辻井伸行 の「ショパン 英雄ポロネーズ 」です。ポロネーズ とはフランス語で「ポーランド風」という意味です。
私はこのショパンの誕生の地を訪ねるまで、こんなにも「ポーランドの人がショパンを愛してる」とは思ってもみませんでした。
ポーランド人のショパンへの思いはとても強いものです。
日本でどんなことに例えられるかなと考えましたが、ポーランド人のショパンに対する思いに比べると、日本では、音楽家でも芸術家でもそのような強い憧れを抱く人はいないのではないかと思います。
ショパンは神格化されたものではないのです。このことは重要です。
ショパンの弱さなのです。
あるいは、ショパンの強さなのです。
ショパンの耐える力なのです。
それがポーランドの人たちのエネルギーとなっています。
言葉には出しませんが、このツアーの中でこのショパンの生誕の地を楽しみにしている人たちがたくさんいただろうと思います。なぜならば本当に熱心に小さなことを一つ一つをうなずきながら見てる人が多かったからです。
私たちがこのショパンの生誕の地を訪ねたのは、もう午後も遅い時間でした。他の観光客は誰一人いませんでした。
警備が厳しいのです。私たちのツアーのすべての人をガードマンが確認しています。誰一人破損させることがないように、誰一人不正を働かないように、誰一人私たちの宝であるショパンを汚さないように、ガードマンがしっかり見張っているのです。
そんな厳しい警備を見るだけでも、ポーランドの人はショパンに対する思いことが強いのは分かります。
ショパンの生家の壁は真っ白く塗られています。
内部ではショパンが使用した椅子や机、そして書籍まで見ることができます。広い庭もきれいに整備されています。美しい花が咲いていました。
ショパン ピアノ協奏曲第1番/Evgeny Kissin
もし、誰かがこの「ポーランドの聖地」を傷つけることがあったら、それだけで戦争が起こりそうな、そんな感じが、ポーランド全土にありました。
ショパン ピアノ協奏曲第2番 / 辻井伸行
生家を訪問した後、ショパンが洗礼を受けた教会を訪ねました。
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📌ショパンはポーランドの誇りです。
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ポーランドの首都、ワルシャワに到着したのはもうずいぶん遅い時間でした。すべてのお客様が夕食を終えていました。それでもビュッフェを開いてくれていました。
ポーランド、そしてワルシャワにはどうしても暗いイメージが付きますが、とんでもないです。
みんな一生懸命働いて、そして外国からのお客さんに対して精一杯おもてなしをしていただきました。食事もとってもおいしいです。
私がこのポーランド旅行記を書く大きな目的は。ポーランドの持つイメージを明るいものに変えていきたいなという思いからです。
宿泊したホテルの部屋にを見てください。とっても美しい洗練された部屋でした。
朝食もとても美味しく頂きました 。ワルシャワのホテルの朝食のビュッフェは世界のどの国にも負けない素晴らしいものです。
どこに暗いイメージなどありましょう。
朝食後、外に出ると確かに東欧そうらしい、大きながっしりした建物が建っていました。
この花はマロニエの花です。ちょうど時期ですので、満開でした。
ワルシャワの大きな公園(ワジェンキ公園)に行きました。
この公園の正面にはショパンの有名な大きな銅像が立っています。とても有名な銅像なので見たことがある人も多いでしょう。
この銅像の前ではピアノコンサートが開かれたりしています。ワルシャワの市民は時々この公園に行ってきてベンチに腰掛けてショパンを眺め、森からやってくるエネルギーを感じているのだろうと思います。
ショパンの名曲10選!ショパンの有名曲・代表曲のおすすめをご紹介
公園に入ってしばらくするとガイドが右手を上に差し上げていました。
「私、小鳥にあげる餌を持ってきたのよ」
そう言って、小さなタッパーウェアから小鳥用の餌を取り出し、右手にのせてまっすぐ上に、上げたのです。
「いつもこうやっていると、小鳥が寄ってくるのだけども、今日はどうかしら?」
このようなことをポーランドの人はいつも行っているのではないかと、思いました。
東京や大阪の大きな公園で、手を上に差し上げて小鳥がやってくるでしょうか。小鳥たちもポーランドの人たちの心の優しさを知っているのだろうと思います。
残念ながら小鳥がガイドの右手に止まることはありませんでしたが、私はこの風景を見て、本当にゆったりした気持ちになりました。
ポーランドはいつのいつの時代も戦争をしていました。
しかし、本当のポーランドの人たちは、こんなに心が優しいのです。
この公園はとても広い公園でした。
日本でもインバウンドの人たちがたくさんいますが来ますが、広い公園をたっぷり時間をかけて、ゆっくりと歩くそのような観光コースはあるでしょうか。
日本人はすぐに珍しいものを追いかけ、過激なものを目指します。
でもポーランドの人は違います静かにベンチに座り、鳥の声に耳を傾けショパンの悲しさに思いを馳せるのです。日本のインバウンドの騒ぎもいつになったら、こんな静かな時間につながっていくようになるのでしょうか。
ワルシャワの街に戻ってきました。
ポーランドといえばショパンが代表されるのですが科学者も有名な人がいますコペルニクスです。これはコペルニクスの銅像です。
ご存知のようにコペルニクスは地動説を唱えました。 彼の著作『天体の回転について』は彼の死の当日、彼のもとに届いたそうです。
ワルシャワの中心部に「聖十字架教会」があります。
この教会にはショパンの心臓が収められています。
ショパンは晩年フランスで過ごしましたが、39歳で亡くなった後、ショパンの姉の手で心臓だけこの教会の柱のもとに埋められたのです。
ポーランドのガイドさんの話によると、なぜ心臓だけ取り戻したかと言うと心臓が残っていると、生き返って悪いことをすると信じられていたようです。
なんでもスカートの下にあるウイスキーに入れた瓶に心臓を入れて、持ち帰ったということです。この地域は二十歳でショパンがポーランド離れるまでポーラショパンのコンサートがたびたび行われていた地区です。
この柱の下にショパンの心臓が埋められています。
📌ノクターン 第20番 嬰ハ短調 (遺作) ショパン / 辻井伸行
教会を過ぎるとワルシャワの旧市街に向かう道に出ます。
ワルシャワは第二次世界大戦で焼き尽くされた街です。この写真は戦後すぐ撮られた写真です 。全ての建物が焼け落ちています。
ポーランドにはもう一人有名な科学者がいます。キュリー夫人です。ここはキュウリ夫人が生まれた家です。
ポーランドの旧市街地のレストランで食事をしました 。とても風情のあるレストランで、とても美味しかったです。
この高い建物は地上30階にもなる「文化科学宮殿」です。
ワルシャワのどこから見ても目立つ建物ですが、ソビエト時代を象徴する建物だということで市民にはあまり評判がよくありません。
しかし、さすがに展望台からの景色はとても素敵でした。
東ヨーロッパと呼ばれているワルシャワでも、近代的な建物がどんどん建っていました。
夜はワルシャワ旧市街の素敵なレストランでした。
ワルシャワにはとてもきれいな地下鉄もありますよ。
こんな素敵な乗り物もありましたよ。
*
翌日の朝、ホテルから見た朝日はとても神々しく、光がまっすぐ私の方に届きました。
ワルシャワのホテルの朝食はとても豪華でした
今回はショパンの生家を中心にご紹介を致しました。
📌ショパンはポーランドの至宝です。
ポーランドの人々がどんなにショパンを愛してるのか、この写真とそれぞれのYouTubeの動画を見ていただければ、本当に改めて感じることができると思います。
ポーランドはいつも戦いの場所でした。東から攻めてくる勢力を西側の勢力が押さえる、その前線基地がいつもポーランドにあったのです。
ポーランドの人々はいつもショパンの音楽を聴いて心を慰めていました。ショパンは39歳で亡くなりましたけど、亡くなった後、その心臓が「聖十字架教会」に納められたことを。ポーランドの人達はとても誇りに思っています。
またワルシャワの大きな公園に、とっても大きなショパンの彫刻があります。人々は広場のベンチに腰掛けていて、週末に行われるピアノコンサートを聴きながら、耐え忍び、それでも希望を持ち続け、ポーランドという国を作り上げていきました。
それは人々の思いからであって、誰かが強制的にポーランドの人々を突き動かしたのはないのです。
人々の小さな想いが大きな力となって、この国をまとめあげたのでした。ポーランドはとても親日的な国です。
それは日本人の精神と通じるところがあるのかもしれません。
ですから、日本人はショパンの曲をとても愛着を持って聞くことができるんです。
私はこのnoteを読んで、改めてショパンの楽曲に、耳を傾けて頂きたいなと思います。
*
ショパン自身、このようなメロディーは二度と作れない、自分の中での最高傑作であると言った……
「別れの曲」を、最後にぜひお聴きください。
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お読みいただきありがとうございました。
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