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忘れることで……

この数ヶ月間もともとは、1冊ずつ本を読む風になってたけど、そもそもは一度に複数冊を読むスタイルがデフォルトだ。ようやく最近、そのデフォルトの読書スタイルに戻った。

いま読んでるのは、この3冊。

デロールの理科室から/ルイ=アルベール・ド・ブロイ、シルヴィ・アルブ=タバール編著
エジプト人モーセ/ヤン・アスマン
エコラリアス 言語の忘却について/ダニエル・ヘラー=ローゼン

複数冊同時読書をしていると、互いに無関係のはずの本同士で共鳴が起こることがある。

今回も意図的にそうしたわけではない。
だけど、この3冊には、生きること、存在することにおける変化、あるいは喪失と生成し続けることが普通であり、変わらず固定化した状態を想定するのはおかしなことだと教えてくれる点で共通項を感じた。そして、忘れられ、変化しつつも受け継がれるものがあることを知らせてくれる点でも。

変転しながら……

さて、ヘラー=ローゼンは「言語そのものを、それを構成する沈殿物の層の絶え間ない地滑りであると定義することができないだろうか」と書いている。
ある言語が別の言語に入り込みつつ、元にあった言語が失われて、その一部が移転先の言語のなかで生き延びるという話だ。化石のようでもあるが、別の言語のなかでそれらの語は使われ続けているのだから化石のように死んではいない。しかも、ヘラー=ローゼンはそもそも言語の死とは何か?と別の箇所で投げかけてもいる。
言語の死が明確に把握できないのと同様に、ある言語から別の言語への移転も忘れられたりして明確にならない。

沈殿物はあまりにも多く多様であるために、ある総体の一部としては存在することができないのだ。言語は自らの要素の移動にしか存在しない。言語の一貫性は、その前に存在した様々な言語と関係を結んだり離したりする忘却と記憶の形成の中にある。

明確ではないが、不明瞭ではありつつも、かつて他の言語からそれは来たのだという記憶が、元の言語も、いまの言語もそれぞれ一貫したものてあることを知らせてくれる。

一方、パリの老舗標本屋デロールを扱った本では、気候変動や外来種の繁殖により「発芽中の植物が、最近の進化の過程で出会うことのなかった別の植物と競合することになった場合、そのあとも生き残って成長を続けられるかどうかを予測するのは不可能です」と書かれている。「植物の多様性を気候変動の脅威から守る」と題された小論からの引用だが、脅威は何も気候変動だけでなく、「さらに」として、こう続く。

近年、外来種が大量に繁殖している一方で、環境の破壊または悪化により、在来種が消滅したり減少する傾向にあり、こうした現象によって植物の相互作用も変わると予想されます。

安易に重ねて考えるのは正しいかはわからないけれど、植物の在来種と外来種の話は、言語が別の言語と出会う場面と重なって見える。
在来種に肩入れしたり、現在の生態系を守るという観点からすると、この変化やその要因である外来種は悪に見える。しかし、そのことで生き長らえる種も一方でいるのかもしれない。
変化が必然だとは言わない。
けれど、変化が存在することは自然なのだし、何か固定化して考える人間の観念の方が過ちを含んでいるのは間違いない。

異質なものを受け入れる変化

アスマンの本では、古代における多神教的な宗教が神の名はそれぞれの民族で異なりつつ、共通の宗教として考えられたことが示される。

アスマンは、その理由を、

異なる宗教の神々を等しいものと見なして翻訳することに人々が関心を抱いたのは、シュメールのパンテオンがアッカドによって吸収同化されたことに端を発し、そこから、外交政策ならびに国際法との関連でより一般的な文化のテクニックに発展したと考えて間違いないだろう。

としている。

そして、

古代の諸国家からなる世界が政治的・通商的にますます絡み合っていったこと、そして、神々の名も含めてありとあらゆるものを文化間で翻訳するという実践がなされたことが、さまざまな宗教には共通点があるという考え、それどころか、1つの共通の宗教という考えを次第に生み出していった。

というように、グローバルなつながりとそれによる自分たちとは異なるものとの接触によって、従来の環境が変化した際、古代の国家群がいかなる生存戦略をとったかといえば、彼らは「競争」や「戦争」という選択をせずに、「共生」といえる選択をしたことを明らかにしている。

このアイデンティティの固定化を優先することなく変化を受け入れながら、延命するというあり方自体、先の言語や植物の場合との共通点を感じはしないだろうか?

「すでに前2000年紀には、旧世界のさまざまな文化とそれらの多神教は、文化間の翻訳という点で、驚くべき水準に達していた」とアスマンはいう。
「多神教を何か原始的で野生のものと考えてはならない」と彼は続け、「古代オリエントとエジプトの多神教は、高度に発達した文化的成果である」としている。

神はさまざまな土地で異なる名で呼ばれながら同一であるとされた。そうすることで多様などの神も生き延びることができていた。
それは、ヘラー=ローゼンが描く、言葉のこんな性質にも似ている。

もしも言語が話者がいなくても生き延びるというのなら、それは言語話者を顧みないからではなく、むしろ、言語が話し手を通じ常にその姿を変えられ、その性質上「さらなる変容が可能だから」である。このようにして、言語は、それを話す者がいようといまいと、時を通じて残る、同じ言語として残ることはないにしても。言語は、別の言語としてのみ生き続ける。そう主張することで、オウィディウスの物語には究極の意味が与えられる。言語は、その変身の中でしか存在しない、そして、あらゆる言葉は、いなくなったニンフの蹄によって砂に記された文字にほかならないのだ。

この「ニンフの蹄」とはオウィディウスの『変身物語』で描かれた、ゼウスに雌牛の姿に変身させられたニンフのイオがしゃべることもできない姿で父に会い、自分の名を砂のうえに"I O"と綴る蹄である。まさに「話者」がいなくても生き延びる言葉であり、変容の前後をつなぐ言葉である。異質なもの同士を言葉がこのようにしてつなぐのだ。それは古代の国家間をつなぐ神のように。

婚姻してパートナーとなって

神話の世界に近い南アメリカの原住民族を描いた、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』書評note)では、「新世界の多くの人びと(ほとんど全て)は、世界とは視点の多様性から構成されるものであるという概念を共有している」と言われる、原住民族である彼らの非人間と人間の境目をなくした変化が描かれていた。

アマゾンに暮らす彼らの「強度的な類縁関係は、種の境界にまたがっている」とデ・カストロはいい、「動物、植物、精霊、そしてその他の人間性の疑わしい群生は、すべて人間との総合的-離接的な関係を含意する」と書いている。

この「アマゾンのきわめてローカルな関係性は」「類縁関係による強い共時的意味をもつ傾向にある」。そして、そうした関係性において異なる者との縁組は次のような意味を持つ。

縁組は、ローカルには外婚制であり稀にしかみられないが、政治的にはむしろ戦略である。すなわち、友情や商業上のパートナーといった、いくつもの儀礼化されたつながりとなるのであり、物理的あるいは精神的な戦争状態、もしくは隠れたあるいは明らかな戦争状態がローカルな集団のあいだで永続するその裏側でなされるような、共同体の間の曖昧な儀礼となるのである。

まさに、古代におけるグローバルな多神教の神々が担ったものと同等の、そして、それより古い原型がここには残っているようだ。
異質なもの同士の隠れた戦争状態が儀礼化された、パートナー状態によってつなぎとめられる。それは砂の上に書かれた文字のように、ギリギリのところで異質なもの同士をつなぎとめている。

ここにおいて他者とはなんなのか
イオにとって元のニンフとしての自分は、この牛の姿となったいま、何であるのか?
その近くて遠い存在は?

他者とは、最初から最後まで類縁者のことなのであり、強奪と贈与--もしくは、強奪や贈与の特殊なケースとして理解されるべき「交換」--の宇宙論的なゲームを義務づけられたパートナーなのである。

奪われるもの贈られるもの

アマゾンにおける婚姻、蹄で書かれるIOの文字、どこかから入り込んだ外来種、もはや自国の言葉のように扱われる他の国から来た言葉……。

そうした贈り物が何かを奪い去っていく。そこにある変化。それは必然とは言わないまでも、ごくごくありふれたものだ。変化によって何かが失われていく。そして、変化のあいだに残された何かが2つの異なるものをつなぎとめる。

それを嘆き悲しむ心理も仕方のないものだ。
けれど、だからといって変化を嫌って、固定化された幻影のみを見ようとするのはあまりに不健全すぎる。

であれば、忘れられることで生き長らえるものがあることを思い、変化をもうすこしだけ受け止めてみてもいいのかもしれない。

複数冊同時読書はこういう視点が得られるから面白い。


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