食人の形而上学/エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ
人類学+ドゥルーズ。
新しい視点をいろいろ与えてくれて、楽しく読めた一冊。とにかく、このタイトルからは想像しにくい、グローバル化と自国主義、ヘイトスピーチやさまざまな炎上の問題など、現代の社会における課題を紐解くのに最適なヒントが詰まった一冊。
面白いポイントがありすぎて、どう紹介してよいか迷うのだが、まあ、とりとめもなく書いてみよう。
ドゥルーズ=ガタリの有名な作品『アンチ・オイディプス』のオマージュとして、『アンチ・ナルシス--マイナー科学としての人類学』と呼ばれる本を著したいとおもっていた、と本書『食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道』の著者のエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロはいう。
しかし、そのタイトルに見合うものが書けそうにないという予感から、著者が採った戦略はなかなかユーモアのあるものだ。
著者はこの『食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道』という本を『アンチ・ナルシス』というもう1冊の別のみえない作品を紹介する本として書くことにしたのだ。
みえない作品についてを紹介-考察する作品。そういう話だと真っ先にホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品が思い浮かぶような戦略を採り、架空な書『アンチ・ナルシス』について書かれた書物で、デ・カストロは「人類学が研究対象とする民族にとって、概念的に人類学といえるものは何であるべきか?」を問うている。ようは従来の人類学の方向性を逆転させてみている。従来の西洋的なパースペクティヴで研究対象となる民族を語る人類学のあり方に対して、『アンチ・ナルシス』の目的は、「重要な人類学理論はすべて、先住民の知的実践の翻訳であるという主張を例証すること」だと、デ・カストロはいう。
「翻訳」という語は、この本でのデ・カストロの主張を理解する大事なキーワードだ。
もし神話が翻訳であるのなら、それは何よりも、神話が表象ではないからである。なぜならば、翻訳は、表象ではなくまさに変容だからである。
表象というと、何かオリジナルがあって、それを別のもので仮に表してみた感じがする。でも、翻訳だと事情は異なる。オリジナルと表象のように、後者が前者に従属する関係では必ずしもない。2つ以上の後によるバリエーションが新たに作られるのが翻訳だ。
ましてやデ・カストロが思考の対象にしているアメリカ先住民の神話における翻訳は、これが最初のものといえるものがあるわけではないため、どの神話がどの神話から翻訳されたものかもわからない。そうなると、どちらからどちらに翻訳が行われたかがわからない、複数の翻訳関係にある神話が存在することになる。
そのアマゾンに住むアメリカ先住民の神話について、デ・カストロは「結局のところ、開かれた多様体、n-1の多様体なのである」といい、そのn-1の神話は「起源を表現しないし、運命も指し示しもしない。それらは基準をもたないのである」といっている。起源も、基準も明らかにならない、互いに類似した神話群の関係性。その間にある翻訳という関係性、そこにひそむ緊張感をもった敵対的な関係性にこそ、デ・カストロは、本来的なものをみる。個々の神話が先ではない。翻訳関係、敵対関係が先にあるとみるのだ。
敵対関係のほうはもうすこし後で戻ってくるとして、翻訳のほうをもうすこし考えてみる。
デ・カストロは、レヴィ=ストロースの『裸の人』から、こんな文章を引く。
あらゆる神話は、本質的に翻訳である〔...〕神話は、一言語のなかに、または一個の文化や下位文化のなかにではなく、自言語と多言語、自文化と他文化との結束点にこそ位置づけられる存在である。それゆえ神話は、けっして自身の言語に属しているのではなく、他なる言語への1つのパースペクティヴなのである...
デ・カストロは、このレヴィ=ストロースの言葉を『千のプラトー』でのドゥルーズ=ガタリの「もし言語というものがあるなら、それは同じ言語を話さない2人のあいだにこそ存在する。言語とはそうしてつくられているのであり、つまり翻訳であって、コミュニケーションではない」という議論に重ねてみせる。
このことと同じ意味で、「重要な人類学理論はすべて、先住民の知的実践の翻訳である」というデ・カストロの主張は展開されている。先の「翻訳は表象ではなく、変容」という言葉の示される「変容」という言葉には、近代西洋の思想を縛る二元論的な思考を超えていくものがある。以下の引用で指摘されるような、杖の両端のあいだで変容する姉妹/妻のように。
この女は、なるほど私の姉妹であるか妻であるかのどちらかであるが、しかし彼女は、「まさにそのどちら側にも属している」のであって、姉妹たち(兄弟たち)の側では姉妹であり、妻たち(夫たち)の側では妻である--私にとっては同時に両側ということはないが、「しかし、その2つの側のそれぞれは、彼女あるいは彼が滑走しつつ俯瞰する距離の端点である分解不可能な空間における杖の両端と同じように、一方は他方の果てにある」。
この杖の両端のような分解不可能な空間における変容のように、翻訳が異なる者同士を分解不可能な平面においてつなぐ。両者は同時にどちらでもある状態であるわけではいかないが、翻訳/変容を介してつながった同一のものである。
このことは次のような対比でも明らかだ。
「新世界の多くの人びと(ほとんど全て)は、世界とは視点の多様性から構成されるものであるという概念を共有している」とデ・カストロはいう。そして、「自然の単一性と文化の多様性のあいだの相互の含意をよりどころにしている」と指摘する。
それに対して、アメリカ先住民の人びとは、「精神の単一性と身体の多様性を想定して」いる。
「文化」もしくは主体が、普遍性の形式をえがき、「自然」あるいは客体が、個別の形式をえがくのである。
精神はひとつで、身体は多様性をもつ。だから、翻訳可能で、変容可能。
こうした考え方が根底にあるから、「あらゆる動物や、その他の宇宙の構成要素は、強度的に人間なのであり、潜在的に人間なのである」という思考が成り立つ。
単純に、姉妹なのか、妻なのかを二者択一的な分類の観念でとらえることをしない、アメリカ先住民の思考においては、精神の単一性(杖という分離不可能な空間)が前提となって多様な身体をとる。ゆえに、神話の領域、あるいは、シャーマンのような特殊な技能をもった人においては、人間と非人間のあいだの往き来(翻訳)は可能だと考えられているのである。
強度的領域が人格や性の区別を知らないのなら、それは種のいかなる区別をも、とりわけ人間と非人間との区別をも知らないのだ、と。神話においては、すべての行為者は単一の相互作用の領域に配置されており、同時に、存在論的、異質的、社会学的に連続している(そこではあらゆるものが「人間」である。そして、人間はまったく他のものである)。
人間と非人間が不可分な空間としてある杖のような連続した領域。だから、アメリカ先住民たちは、動物たちを死んだ人間として考えるし、敵を捕食することで彼らを自身に取り込もうとするのだ。
デ・カストロは、こうしたアメリカ先住民の思考のパースペクティヴ主義を、ドゥルーズ=ガタリのポスト構造主義的思想と重ねてみせる。
「構造」と呼ばれた代数的な形式の対象は、ますます流動的な輪郭をもつようになり、すでにのべたように、変容のアナロジー的な思考へと変化していく。アメリカ先住民の物語を構成する関係性は、社会民族誌的な現実性をそなえた表象的な傾向、共起的なヴァリエーション、差異の分配からなる組みあわせの全体というよりもむしろ、「接続と異質性」、「多種多様性」、「非シニフィアンの切断」、「地図作製法」といった原理をより模範的に提示するものになる。ドゥルーズとガタリは、これらを、「リゾーム」という概念の名のもとに、構造のモデルに対置させた--「リゾーム」の概念は、反-構造の固有名として提起され、ポスト構造主義のスローガンとなったのである。
リゾームについて考えることは、ドゥルーズらが多様体と呼ぶものについて考えることとほぼ同じであろう。
「リゾームは「部分」と「全体」の区別を棄却する根本的にフラットな存在論を投げかけるのである」とデ・カストロはいうが、このリゾームの特性は、マヌエル・デランダが『社会の新たな哲学』で多様体(デランダの本では「集合体」と訳されている』についての次のような説明と同じ考えに基づくものだといえる。
有機体論的な全体性にとってかわりうる理論的な手立ての主要なものは、哲学者ジル・ドゥルーズが集合体と呼んでいるもの、つまりは、外在性の諸関係を特徴とする全体性である。外在性の諸関係はまず、集合体の構成部分が集合体から離脱し、異なった集合体へと接続され、そこでまた異なった相互作用を営むようになることを意味している。言い換えると、諸関係の外在性は、諸関係そのものが関係することになる項がある程度自律していることを意味している。
多様体=集合体は、従来の組織のような構造物のように、全体と構成要素となる部分が互いに緊密に機能的に結びついた構造をとらない。個々の要素が自律的に活動するなかで生じる創発が大きなまとまりを生成する。だから、構造体全体やそれを構成する部分としての主体などを対象に考える近代西洋的な考え方に対して、リゾームや多様体の考え方はより潜勢的な力を対象とする。
また、多様体の理論においては、本質を問うたり、分類的に整理を行う方法は無縁となる。デ・カストロも「マニュエル・デランダが指摘するように、多様体の理念は、反-本質主義者、反-分類学者であらんとする決断の産物である」と言っている。
この視点でみると、主体自身が何者か?を問う、ナルシス的な問いは無効化し、「外在性の諸関係を特徴とする全体性」において、まさに外在的な関係性をどうするか?という問題のほうが根本的なものとなる。
そう、ここにおいて先の敵対関係の視点が登場する。
純粋で潜在的な類縁関係、あるいはメタ類縁関係は、アマゾンにおける他者性の総称となる図式なのだが、それは明らかに『千のプラトー』における「第2種の縁組」に属している。それが出自に敵対するのは、婚姻が1つの選択肢とならない場合にそれが現れるからであり、婚姻が現実のものとなるような場所では姿を消して、出産に関わるような生産性をもたないからである。むしろそれは、内的な産出力をすべて、外部との悪魔的縁組に依存しているのである。生産のモード(等質的な出自)ではなく、捕食のモード(異質発生的な取りこみ)である。それは、共生関係のあいだの捕獲、存在論的な「再捕食」による「再生産」である。自己を外在化する条件としての、食人による他者の内在化であり、敵--敵として振る舞うもの--によって「自己規定される」ようにみえる、ある種の自己である。これが、アマゾンの宇宙論的実践に固有な、他者への生成である。潜在的な類縁関係は、親族よりも戦争と強く結びついている。文字通りそれは、親族に先行しその外部において、戦争機械の一部をなしている。
敵対関係が親族的な関係に先行する。これは先の言語において翻訳がコミュニケーションに先行するのと同じだ。戦争関係にある敵と対峙するなかで、主体が出来する。
アラウェテの殺戮者たちは、その敵をつうじて、自らを敵のようにみなしたり、敵のような状態にしたりする。つまり「敵として」現れるのである。彼は、犠牲者の眼差しをとおして自らを理解した瞬間から、あるいはむしろ、犠牲者の声によって自らの特異性を表明した瞬間から、自らを主体として把握する。パースペクティヴ主義である。
捕獲した敵をアメリカの先住民たちは食べる。食べることで敵と縁組をする。それにより自己が生まれる。敵との関係(縁組)において、自己が生産される(出自)。あくまで縁組が出自に先行し、生産ではなく、生成が問題となる。
そして、この縁組にも2種類あるようだ。
文化的で社会政治的な外延的な縁組があり、そして、反-自然的でコスモポリティックで強度的な縁組がある。外延的縁組が出自を区別するのに対して、強度的縁組は種を撹乱する、あるいはむしろ、非連続的な種別化という制限的な総合によって別の方向=意味に(同じ軌道をえがかない…)現実化された連続的な差異を、内含的な総合によって反-実現する。シャーマンがジャガーに生成するとき、彼はジャガーを「生産する」のでもなければ、ジャガーの子孫に「加わる」のでもない。彼はジャガーをうけいれるのであり、ジャガーになることを認めるのである。つまり、彼はジャガーとの縁組を結ぶのである。
縁組によって結ばれたシャーマンとジャガーという一本の杖。その両端は敵対しているようにみえるが、それゆえに縁組の関係にもあるのだといえる。
形の決まった構造や分類、静的な主体や実体を軸に考えるのではなく、相対する関係のなかで生じる生成に目をむける考え方、これこそ実はいまの時代に必要な視点ではないだろうか?
各国の法や文化を過度に主張しあうような、国や地域などをまず、それがありきと考えるのではなく、まず関係性ありきで国際法や交流のあり方を先行して考えるようなことはできないだろうか。企業組織や個人の主張などではなく、どうネットワークのなかで縁組を行い、そのなかで都度、形を変えた動きが発生してくるような、そんな世の中にはシフトさせていくには何が必要なのだろうか?
そんなことを考えたくなる、大いに刺激のある一冊だった。思考の転回が好きな僕にはぴったりの本で、ワクワクしながら読み進められた。
その分、もらった刺激も多く、考えることもいろいろで、読み終えてから、どう紹介しようか?と迷って1週間。このままだと、紹介せずに終わりそうなので、頭がまとまりきらないまま、とりとめなく綴ってみた。
果たして、面白さが伝わっただろうか?
まだ消化しきれてない部分も多いので、このあたり、もうすこし考えていきたい。