【序文】
2022年1月から6月にかけて私は「信州読書会」様に参加させて頂いた。
本読書会は、読書会参加者同士が課題図書について対面で議論する形式ではなく、参加者が書いた「読書感想文」を主宰者が紹介してその所見を伺うといった形式をとる。そのため、参加者は事前に感想文を準備しておく必要があり、僭越ながら私も感想文を書いて提出した。また、私は昨年、自身の読書感想文および課題図書をあらためて振り返り、再点検を行った。その模様は【このレビュー記事の通り】であり、我ながら有意義な試みであったと得心していた。
ところが先月、上記レビュー記事に関してある方から次のお便りを頂いた。
上記の通り、クリバヤシ様(※仮名)より頂いたご指摘事項の要点は、
採点の判断根拠および判定要素が不明瞭。
その場のノリでテキトーに採点している。
レミゼが1点なのはおかしい。
以上の3点かと思われる。つまり、採点方式・取組み姿勢に問題があるのだという。クリバヤシさんの意見は確かに一理ある。レビュー時の客観性を重視したとは謳っておきながらも私は感覚に頼って採点していた為、おっしゃる通り「定量的」とは言い難く、採点の要素が考慮できていない。これではレビュー結果に対し、クリバヤシも含めた第三者が納得するはずもなく、納得しているのは「この世に私一人だけ」という事態に陥ってしまっている。これに関しては非常に済まない事をしたと猛省している。この場を借りて謹んでお詫び申し上げる。
以上の経緯により、今回はレビュー時の採点方式を大幅に改善(※後述)した上で、「2022年1月~6月期間の読書会で扱われた課題図書」を対象とした課題図書・読書感想文のレビューを行うことにする。そしてその結果を踏まえ、7月以降の読書会における作品理解のさらなる向上に繋げることが本稿の目的である。これを言い換えると、つまり「おいクソバヤシ。誰なんだお前は。貴様には悪いがレミゼの採点結果1点はどんなことがあろうと揺るがない。この青二才め。手続きは済ませておいた。法廷で会おう。あと、お便り397。」である。
【採点方式について(大幅改善)】
今回の採点方式は、クリバヤシ様の意向に従い、前回の採点方式の問題点である「採点の根拠が弱く客観性も無い」を解消すべく、以下の通り大幅な改善を施した。
以上を踏まえたレビュー結果は以下の通り。
※下記に嘘偽りは一切ない。誓って、すべてが本音である。
【カラマーゾフの兄弟(上巻)】
【冬の蠅】
【イワンのばか】
【鴎】
【カラマーゾフの兄弟(中巻)】
【痴情】
【キリマンジャロの雪】
【蔦の門】
【カラマーゾフの兄弟(下巻)】
【秘密】
【のんきな患者】
【ワーニャ伯父さん】
【母の上京】
【夜明け前(第一部・上巻)】
【姥捨】
【五分後の世界】
【夜明け前(第一部・下巻)】
【晩秋】
【余興】
【越年】
【夜明け前(第二部・上巻)】
【ある崖上の感情】
【少年】
以上、2022年1月~6月に開催された読書会における課題図書および読書感想文のレビュー結果となる。それでは最後に、レビュー結果をランキング形式で紹介し、本稿の締めくくりとする。
【課題図書おもしろランキング】
課題図書を合計得点順に並び替えた結果を以下に示す。
【読書感想文おもしろランキング】
読書感想文を合計得点順に並び替えた結果を以下に示す。
【あとがたり】
愚にもつかぬ雑感を申し上げる。
ここ数年、フィギュアスケートという競技をテレビで目にする機会が多い。このフィギュアスケートなるものは競技である以上、順位付けが行われるため審査員達は採点基準に基づいてその優劣を評価するのだが、その評価基準が至って特殊である。国際スケート連盟によると、フィギュアスケートの採点方法の内訳は、選手の技量・質を判断する「技術点」、表現力を評価する「構成点」という2項目からなる合計値との事である。前者の技術点は、技の難易度ごとに得点が定められており、例えばトリプルアクセル、4回転トゥループといった高難易度の技はミスさえしなければ得られる得点も高く、採点基準は至極単純明快である。一方で不可解な採点基準はというと後者、構成点である。構成点は選手の演技の表現力に対する採点が行われるのだが、この評価要素は、5項目から構成されており、「①スケートの技術」「②技のつなぎ」「③演技表現」「④振り付け」「⑤音楽の解釈」といったように、音楽の世界観にふさわしい演技をしているかを評価され、ダンス、表情、スケート技術の高さなどもすべて得点に換算されるのだという。オリンピック競技であるにも関わらず、こうした不確定な要素からなる構成点の存在。私が冒頭で特殊だと述べたのはここを指しているのであって、特に構成点における「③演技表現」「④振り付け」「⑤音楽の解釈」という要素は審査員だけでなく選手にしてみても非常に扱いが難しいと思われる。
例えば、今ここに前途有望な女子フィギュアスケート選手・玉井玉子が大会に出場したとする。技術力において申し分のない玉子はトリプルアクセル、ルッツ、サルコー、トゥループなんて芸当は朝飯前の前の前、そつなくこなす選手であったものの、元来、芸術家気質の彼女の内には以前から技術点だけでなく構成点にも注力すべきであるとの強い思いがあった。そしてオリンピックを賭けた大会当日、とうとう玉子の出番が回ってきたのだが、あろうことか、彼女はスケート靴ではなく鉄ゲタを履いてスケートリンクに立ち、用意しておいた楽曲はいつものクラシック曲ではなくアフリカ民族音楽『ケチャ』を流し始めたのである。ケチャが始まると同時に鉄ゲタにねじり鉢巻き姿の玉子は地団太を踏みはじめ、ケチャの掛け声が激しくなるにつれ彼女の地団太もヒートアップ、ついには鉄ゲタで氷を粉砕しながらケチャと玉子のおたけびは会場中にこだまし続け、演技終了時間1分前に差し掛かったところでようやく鉄ゲタからスケート靴に履き替えた彼女はトリプルアクセルを40回連続で決め、玉子の演技は終了したのである。その際、彼女の瞳から一筋の涙が流れていたという。
以上の例を踏まえて、各審査員はどう評価するのか私は問いたい。鉄ゲタでリンクを粉砕する荒唐無稽な荒業にマイナス評価をする者、冷え切った氷上に赤道直下の熱いケチャというコントラストに芸術性を見い出して満点を投じる者、クラシックしか知らないからという理由で減点する者、トリプルアクセルは実はケチャの源流であるという玉子の解釈を高く評価する者、といった判定結果が生まれるかは知らないにせよ、競技に芸術の要素を持ち込んでしまうと最適な判定というものは困難を極めるということであり、それは選手および審査員にとっても迷惑な話ではないかと思えてくるのである。
それにも関わらずなぜ審査基準に「構成点」が存在するのか。私が思うにそれは「フィギュアスケートの発展性・成長性」を考慮した結果ではないかと考える。というのも、オリンピックのテレビ中継を見ていると各フィギュアスケート選手の演技ときたら、クラシック音楽に合わせてトリプルアクセルを何回成功させるかに重点が置かれており、その成功者=金メダリストとなっているからであり、つまり全ての出場選手はこの紋切り型の表現に終始してしまっているのである。これではフィギュアスケート競技は「誰が一番トリプルアクセルをキメられるでしょうかゲーム」ではないか。素人意見で甚だ恐縮だが、この退屈な演技を打開し、さらなる競技の発展を促すには「構成点」に頼るしかなく、構成点という特殊かつ自由な発想を発揮できるであろう評価項目を審査員と選手が力を合わせて活用すべきであり、ひいてはそれがフィギュアスケートの未来に繋がるのではないかと提案させて頂く次第である。なぜジャンプの種類は6種類と決まっているのか。他にもあっていいではないか。ダンス、表情も表現の内なら発想転換の余地は大いに残されている。フィギュアスケートという特殊な競技をそもそも「競技」という枠組みで取り扱うべきなのか、構成点なるものの存在意義に立ち返り今一度再考すべきである。鉄ゲタで失格となった玉子。彼女の悔し涙を我々は決して無駄にしてはならないのである。
以上に申し上げたフィギュアスケートにおける表現の問題は文学においても同様であり、私は本稿の冒頭、【採点方式について】において、課題図書の文学性/芸術性という判定要素を「人間とは何かの追求。あるいは、虚実混交の表現。」とした。当然、この判定要素は人類不変の絶対的なものではなく私が独断で決めた文学性/芸術性の所在であり、課題図書でいえば『カラマーゾフの兄弟』『母の上京』『冬の蠅』『晩秋』にはそれが随所にみられる。ただ、『母の上京』に比べて『冬の蠅』『晩秋』の評価が低いのは文学性/芸術性以外のマイナス要素があったからであり、要は総合的な評価の結果である。五項目からなる判定要素の内、「特別点」を設定した目的は、他の四項目の判定要素とは異なる指標が各作品において存在するため、そこを考慮したことによる。つまり、その作品にしか適用することのできない採点の考え方があってもいいではないかという意図がある。芸術性が高いからといってそれが傑作とは限らず(=岡本かの子)、かといって表記が分かりやすいから傑作ともならず(=太宰治)、特別点による調整も考慮した総合的な評価を行うことで平等なレビューが実現できるのではないか。本稿はその試みでもあり、それが成功したのか、あるいは失敗に終わったのか、それについてはクリバヤシの意見を聞いてみることにする。
◎余談(村上龍の読書会に際して):
読書会で扱う課題図書は、古典~近代の著名かつ版権が切れた文学作品が大半である。しかし今回、異色な存在として村上龍『五分後の世界』が扱われており、読書会主宰者の方がどういう経緯で本書をチョイスしたのかはわからないが、他の課題図書と比べて明らかな変化球である。私はこの本を持ってなかったので買いに行った。で、読んだ。村上氏はテレビ等のメディアにも多く出演しており小説家以外の彼の側面が我々の脳にインプットされているせいか、読者の内には良くも悪くも先入観を前提とした読書に陥っている方もいるかもしれない。あいつのテレビでの態度が気にくわない、雑誌のインタビューでけっこう良いこと言ってた、いいマンションに住んでた、服のセンスが悪い等々、作家を身近に感じた状態で著作を読んでしまうと作品に対して良いものは良い、悪いものは悪いという判断ができなくなり読書の弊害にもなるため公平に扱わなくてはならない。そのうえで、私にとって『五分後の世界』は十分面白い作品だと思ったし、設定に関しても素晴らしい構想だと評価している。そして読書会の模様もチェックした。参加者はどーせ俺しかいないだろうなーなんて思ってたら意外とそんなこともなく、読書会では様々な方のユーモアのある意見が飛び交い、非常に有意義な時間だったと記憶しており、古典近代も良いが現代小説を扱う読書会もまた別の趣向があって印象深かったので機会があればまた参加したい所存である。
といったことを考えながら、クリバヤシと玉子とペレのことをあと少しだけ思い返してから今日は寝ることにする。
以上