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岡本かの子『蔦の門』読書会 (2022.2.25)

2022.2.25に行った岡本かの子『蔦の門』読書会のもようです。

メルマガ読者さんの感想文はこちら

青空文庫 岡本かの子 『蔦の門』

朗読しました。


私も感想文を書きました。


人間の恐るべき業が「蔦」なのではないか?
 


青空文庫版で朗読したところ、新潮文庫版にはない最終部分が追加されていて、録音しながら、そのまま読み上げて良いものか迷った。

(引用はじめ)

蔦の茂葉の真盛りの時分に北支事変が始まつて、それが金朱のいろに彩(いろど)られるころます/\皇軍の戦勝は報じ越される。
 もう立派に一人前になつてゐたひろ子は、日常の訓練が役立つて、まるで隣へ招ばれるやうに、あつさり「では、をばさん行つて来るわ」とまきに言つて征地の任務に赴いた。
「たいしたものだ」まきは首を振つて感じてゐた。  (青空文庫版 『蔦の門』 最終部分)

(引用おわり)

私の持っている新潮文庫の解説は亀井勝一郎のものである。岡本かの子の作品には、江戸情緒と文明開化の混じり合った独特の雰囲気がある、と彼はいう。蔦の門というのは、西欧趣味なのか、江戸情緒の一つなのか、私にはわからないが、蔦は教会を連想させるので、私には、西洋風に感じられる。西洋趣味と江戸情緒の混交が『蔦の門』なのだろう。

江戸情緒は、関東大震災と東京大空襲で全滅したとある。谷崎は関東大震災後の東京に幻滅して上方に越した。私が、戦前から活躍していた志ん生や文楽といった噺家のネタをYouTubeで聞いていて、感じ入るのは、失われた江戸情緒の名残があって、粋だからである。


粋とは、「諦めと意気地と媚態」である、と九鬼周造は定義した。まきには、諦められないなにかがあって、同じ孤独の中にあるひろ子を励まし、彼女の自立のために、彼女の手に医療の専門技術をもたせた。

女性が看護師になるのは、経済的自立を得るということで素晴らしいことだと思う。しかし女性の経済的自立さえも、超国家主義の中に包摂されて、大日本帝国の軍事戦略を支えるものになろうとは、意外である。経済的自立が軍国主義に組み込まれて、女性の自立という当初の志が踏みにじられていくを見るようで、私は、苦々しく感じた。

ひろ子の従軍を「たいしたものだ」と感じ入ったまきの感慨を、私はどうしてもグロテスクに感じてしまう。この感慨には、隣組の監視体制や国防婦人会の銃後奉仕につながるような、超国家主義的ファナティシズムの響きがある。まきの素朴な庶民的善意が、国威発揚をつうじてファナティックな翼賛体制支持に変節し、その結果、彼女たちがこよなく愛した、蔦の門のある江戸情緒を、焼夷弾の火の海の中に滅ぼしてしまうという因果に、人間の業(ごう)の禍々しさを見た。

最後の部分のあるなしで、随分印象の変わる作品だと思う。最終部分があったほうが、人間の業が顕(あらわ)になって怖いと思った。この業=現世の因果関係の絡み合いが、「蔦」が象徴しているとしたら、それを見越して、戦前に亡くなった岡本かの子の慧眼に、背筋が凍るような怖さを感じる作品である。


(おわり)


追記です。(2022.3.3)

メルマガ読者さんに教えていただいた岡本かの子の『蔦の門』の全集版の続きです。青空文庫版のさらに続きがあったそうです。

​『それから私の家の蔦の門に祝勝の日章旗が掲げられる度、潜門(くぐりもん)の方へ小さい赤十字の旗も掲げられる。ひろ子を想ふまきの心盡(づく)しである。そして二三日前、まきが自分宛に来るひろこからの手紙だけでは物足りながつて、芝のひろ子の実家へ行ってみたとき、矢張り日章旗と赤十字の旗が掲げられてあつたと言って、まきは涙を出して悦んでゐた。』(終)


蔦の門には日章旗、その側の、使用人用の出入り口である潜門には、赤十字の旗が掲げられていたというところに、驚きました。


プロレタリア文学運動の最中に亡くなった岡本かの子の心境のにじむ複雑な結末でした。


この赤十字の旗によって、蔦の門は、戦火をかいくぐったのでしょうか?


読書会のもようです。


お志有難うございます。