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梶井基次郎『ある崖上の感情』読書会(2022.6.17)

2022.6.17に行った梶井基次郎『ある崖上の感情』読書会のもようです。

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青空文庫 梶井基次郎 『ある崖上の感情』

朗読しました。



Break On Through To The Other Side 


ソロモンの十字架の手相。家をなすことのない人間。家を成し子孫を残すことが、種の保存の拠点であるとすれば、家に阻まれている、つまり、出家とは、そのような拠点の一切の断念である。根無し草の流浪である。
家をなすことのない流浪の人間にとって、他人の家の窓は、世界疎外の感情を誘うものだろう。

根無し草の人間にとって生きることのリアリティーとはなんだろう?
他人のベッドシーンを見たいというのはリアリティーなのだろうか?

家で、生殖が行われ、新たな生命が再生産される。家は、持続する人間社会の基本単位を成している。


根無し草の放浪者は、家から疎外されているからこそ、そこに住む他人の正体を暴きたいかもしれない。


しかし、見ることは、破壊することではない。破壊することは、暴くことではない。見ることが暴くことだとしたら、崖の上から眺めることは、暴くことなのだ。


暴かれたものに驚くことが、根無し草の人間のリアリティーならば、なぜ生島は、石田に自分と小母さんとのベッドシーンを見せたいのだろうか?

ハンナ・アーレントが『人間の条件』で指摘したように、現代人は、私生活が全てになっている。労働で賃金を稼ぎ、家に籠もり、一応は、社会参加しているが、その社会とて、プライヴェートの延長であり、そのプライヴェートは、あくまでも、窓の中に閉ざされている。


正体を隠し、なりすまし、家をなし、私生活に立てこもるのが現代人である。
これが崖の上から透視した夜の街の家々の窓の向こう側のすべてである。

そこから疎外されているとすれば、窓を除くことでしか、暴くことでしか、人間のリアリティーは回復しない。

自分の味気ない性交を、自分の欲望を仮託した他人にのぞかせることは、生きていることのリアリティーを回復させる手段である。しかし、そこにあるのは、本当のリアリティなのか? 露出狂の歪んだナルシシズムの確認ではないのか?

覗くことはサディズムであり、同時に、マゾヒズムである。攻撃性から覗き、無力感から覗かせられているのである。
そして、窓を開けて覗かせている方も、無力な状態を楽しみながら、見せびらかすという攻撃性を発揮する。

これが果たして、リアリティーなのであろうか? 単なるサドマゾ的共依存ではなかろうか?

窓のない家は、墓に似ている。そして、窓のある家は共依存である。
それを眺める崖の上の男は、世界疎外そのものである。
リアリティーの喪失が、我々も住んでいる現代の夜の街を覆っている。

生島が、愛のない荒んだ性交に、リアリティーを与えるとしたら、彼は、すべての憤懣とサディズムのはけ口として、小母さんを性交のはてに、絞殺して、理不尽な無理心中を図るしかないだろう。

しかし、そんな必要はない。破壊することは暴くことではない。

生島に頼まれて、崖の上から彼らの性交を見ていた石田が、隣の産婦人科の窓に見たのは、生まれたばかりの赤ん坊と、その出産で不幸にもなくなった母と、その理不尽な死に立ち会った父と関係者の凝立であったのだろう。

性交と出産と死が、夜の街の別々の窓に同時に成立させているリアリティーが、石田を戦慄させた。

そして、その窓の中に、街道の宿屋の二階のような落魄の親子の愛も成立するのである。

これこそがリアリティーなのである。石田が生島に導かれて暴いたものである。

生島に依頼された石田が、世界に疎外された生島の代わりに、彼の欲望の傀儡として、二重人格として、影として、強烈なリアリティーを、窓を暴くことで、生と死の交錯する世界を、恍惚の中で体験したのだ。

Break On Through To The Other Side  The doorsのナンバーである。

ドアーズの由来となった知覚の扉、窓、その窓の向こう側を暴くことで顕になった恍惚のリアリティーがこの作品にも描かれている。


(おわり)

読書会のもようです。



お志有難うございます。