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軍事と外交を統合する戦略を探求したジョージの強制外交理論 The Limits of Coercive Diplomacy(1971)

強制外交(coercive diplomacy)は、すでに何らかの望ましくない行動を開始している相手に対して、その行動を中止させたり、あるいは行動を撤回させることを目的とする外交行動であり、軍事的措置をとる覚悟であることを伝えることで実行されます。1971年に初版が刊行され、1994年に第2版が刊行された『強制外交の限界(The Limits of Coercive Diplomacy)』は強制外交を成功させる条件を考察した重要な業績です。

この著作の中でもアレクサンダー・ジョージが執筆した第1章から第3章の内容は強制外交の可能性を考える上で重要な成果です。この部分をこの記事では紹介したいと思います。

George, Alexander L., and William E. Simons, eds. (1994). The Limits of Coercive Diplomacy. 2nd ed. Boulder: Westview Press.

ジョージは強制外交は本質的に防御的性質を帯びた戦略であり、相手にある行動を停止させるか、あるいは撤回させるように誘導する努力として定義しています(George 1994: 7)。強制外交は、まだ何も行っていない相手に対して何らかの行動をとるように仕向ける恐喝(blackmail)とは異なっています。

ただし、強制外交は恐喝と同じように、相手に働きかける手段として何らかの脅しに頼らなければならない点で一致しています。そのため、強制外交の手段として軍事的手段が用いられますが、ジョージは強制外交はあくまでも可能な限り小さな犠牲で政治的目的を達成することを目指す戦略であるため、武力の行使は可能な限り回避されると述べています。

「強制外交は魅力的な戦略である。なぜなら、これは費用をより小さくし、犠牲をより小さく、可能なら皆無にし、政治的・心理的な費用を軽減することで、危機における合理的な目標を達成する機会を防衛者に与えるためである。さらに述べるとすれば、強制外交は伝統的な軍事戦略よりも望まないエスカレーションの危険をより小さなものにする。強制外交の手段によって対応された危機は、戦争になった場合よりも双方の将来の関係を損なう恐れも少なくなる」

(Ibid.: 9)

ジョージが示唆するように、強制外交は「伝統的な軍事戦略」とは異なる選択肢であり、将来の外交関係の悪化を最小限にとどめることが考えられています。後の記述を読むと、ここでジョージが考えている軍事戦略とは、敵に迅速かつ決定的な打撃を加えるように部隊を運用する方策であると分かるのですが、これは戦力の集中による敵の撃破によって達成される戦略です(Ibid.: 10)。強制外交は何らかの軍事行動を伴うものの、それは相手の部隊と交戦し、可能な限り大きな損害を与えるためではなく、あくまでも交渉を促進することに重点が置かれています。

1962年のキューバ危機は、アメリカがソ連に対して強制外交を成功させた事例です。キューバ危機における強制外交の特徴は、ソ連軍がキューバの領域に核ミサイルを搬入することを阻止するため、アメリカ軍の海上部隊で封鎖を行うと同時に、すでに搬入された核ミサイルの撤去を外交で要求したことでした。ジョージは、この事例の分析を通じて交渉を開始するときの状況が極めて重要な意味を持っていたとして、強制外交を成功に導くにはタイミングが重要だと論じています。

「ケネディ大統領は、キューバにおけるミサイルのことを公表し、封鎖を発表したとき、目前の危機交渉の段階について明確に定まったイメージを持っていなかった。むしろ、交渉に対するケネディの見方は、交渉の過程に入る前の段階で、フルシチョフに自らの決意を印象付けなければならないという信念によって形作られていた。このような観点から、交渉のタイミングは極めて重要であった。ケネディ大統領が正しく認識していたように、アメリカの決意を誤解したままフルシチョフと交渉しようと試みれば、フルシチョフの要求と期待は非現実的なほどに過剰なままである可能性が高かった。このような場合、ケネディはミサイルを確実に撤去させるために、あまりにも大きな代償を支払わなければならないか、あるいは交渉は長期化、決裂し、戦争の危険を伴う追加の行動をとらざるを得なくなっただろう」

(Ibid.: 100-101)

ケネディは封鎖によってアメリカの決意を示し、ソ連を引き下がらせる条件を整えた後で交渉の過程に入ることにより、強制外交を成功させようとしていました。ケネディはフルシチョフに見返りを与える方法も模索しており、キューバに侵攻しないことの保証や、トルコに配備していたミサイルの撤去を交渉の材料にすることを考えていました(Ibid.: 101)。しかし、こうした外交上の提案を相手に持ち出す前の段階で、アメリカが強い覚悟を持っていることをソ連に伝えることが、強制外交の戦略として重要であるとも考えられていたのです。

10月22日の大統領演説でケネディはキューバに対する海上交通を封鎖することを発表し、ソ連が船舶で貨物を輸送することを阻止する姿勢を明らかにしました。ケネディは、この発表が事態のエスカレーションに繋がる恐れがあることを織り込んでいましたが、これは交渉上の立場を強化するための措置であり、外交と軍事の連携が意識されていました。実際、アメリカ軍は10月23日にキューバの周辺800マイルに設定された封鎖線の位置を500マイルに再設定していますが、これはその日の夕方にキューバに向かっていた船舶に向けてソ連が暗号化された通信文を送信していることを探知したためでした(Ibid.: 108)。アメリカの封鎖線に達する前にソ連が船舶を引き換えさせようとソ連が動いている可能性があったので、この封鎖線の位置を後退させたことは、アメリカとしてソ連が譲歩する時間的猶予を与えることを意図したものでした。

間もなく、ソ連の船舶の一部は封鎖線の手前で撤退を開始したので、ケネディは当分の間は船舶を停止させてはならないように、と追加の指示を出しています(Ibid.: 109-110)。封鎖線を越えて貨物の輸送を続けた船舶もありましたが、ケネディはソ連を刺激しないように注意を払い、ソ連のチャーター船であるものの、船主がパナマ国籍であり、船籍がレバノンである船舶Maruclaに対して臨検を指示するなど、細かく部隊の動きを統制しています(Ibid.: )。26日には臨検が実施されましたが、船員はアメリカ軍の調査に協力し、キューバへの輸送が禁止されていた貨物は発見されませんでした。ジョージは、この段階でフルシチョフがケネディの決意の固さを認識していたとの見方を示しています。ソ連が船舶を護衛する目的で派遣した潜水艦の動向がアメリカ海軍の艦艇によってすでに察知されており、執拗に追跡を受けていたことは、フルシチョフにとって圧力であったとされています(Ibid.: 112-113)。

強制外交は軍事的能力の優越で説明できるものではありません。それが成功するかどうかは、いかに相手の意図や決意を理解するか、いかに交渉の過程を操作するかにかかっています。ジョージによるキューバ危機の分析は、強制外交の研究において古典的なものとなっており、軍事と外交を連携させるということが何を意味するのかをよく示しています。

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