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論文紹介 政治家が国内の有権者に約束したことは、外交的な意味を持つ

外交交渉では自国の譲歩を最小限にとどめ、相手国から最大限の譲歩を引き出すことで、有利な合意をまとめることが求められます。このような場面で、指導者はあえて国民に成果を約束し、自国が譲歩すれば、自分の評判を傷つける状況を創り出すことがあります。政治学の研究者は、これには戦略的な効果があると考えており、それを説明するために観衆費用(audience cost)という概念を使っています。

観衆費用とは、国内で観衆となる有権者が、対外政策の実行に失敗した指導者に課すであろう費用として定義することができます。一般に軍事力で劣勢な国は、優勢な国に対して服従しやすいという考え方もありますが、国際的危機では相手に軍事力を行使する決意が本当にあるのかどうか判然としない状況がほとんどです。1994年にジェイムズ・フィアロンの論文「国内政治の観衆費用と国際紛争のエスカレーション(Domestic political audiences and the escalation of international disputes)」では、それぞれの国が、どれほど強硬な態度で交渉に臨むかによって、交渉の結果が大きく変化することが説明されており、自国の立場の強硬さ、決意の固さ、不退転の決意であることを効果的に相手に伝える技術が戦略的に重要であることを明らかにし、その一つとして観衆費用を発生させる方法があると論じられています。

通常、指導者や外交官だけが関わる外交交渉では、それぞれの国が自国の本当の立場を隠しており、また時には自国の偽の立場を主張することが普通です。秘密交渉でどの国の指導者がどのような立場を主張しているのかは、当事者だけが知り得る情報であるため、ある指導者が譲歩したとしても、そのことが国民に広く知れ渡ることはありません。有権者は自国の指導者が合意形成の過程でどれほど譲歩したのかを正確に知ることが難しいのです。

しかし、指導者が前もって自国の立場や要求を国民全体に向けて説明し、将来的に獲得される成果を約束していた場合、国民はその指導者が外交交渉で大きな譲歩を余儀なくされたことに気が付きます。これは一見すると指導者が国内政治で不利な立場に立たされるだけの行動に見えるかもしれませんが、フィアロンは国民に向けて外交的成果を約束した指導者は、交渉する相手に対して絶対に譲歩できない一線があるという決意を伝えることが可能であることを明らかにしました。

無論、自ら観衆費用を創り出すことは、指導者にとって諸刃の剣だといえます。有権者に成果を出すと約束した指導者は、交渉で選択できる立場を制限するので、エスカレーションをもたらす危険もあります。ただ、だからといって有権者に対し具体的な成果を約束しなければ、それは外国の交渉相手から見て指導者の交渉行動を厳格に制約するものがあるとは認識されないため、外交交渉における効果が弱まってしまいます(Smith 1998: 623)。

マーク・トラクテンバーグの論文「観衆費用:歴史的分析(Audience costs: An historical analysis)」(2012)は、観衆費用という概念が歴史上の外交交渉に与えた影響を理解する上で有用であることを実証した研究成果であり、19世紀から20世紀に大国間で発生した危機に際し、どのような交渉が行われていたのか、そこで大国が観衆費用をどのように使ったのかを記述しています。キューバ危機(1962)の事例分析も具体例の一つとして登場しています。トラクテンバーグはキューバ危機が起きた際に、ソ連の駐米大使だったアナトリー・ドブルイニンが、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が譲歩を拒むのは、国内の強硬な世論に対抗できないためであると本国に報告したことを紹介しています(Trachtenberg 2012: 30)。また、当時、ソ連の最高指導者だったニキータ・フルシチョフもケネディがソ連に譲歩すれば、国内で臆病者と非難されることを恐れており、核戦争の瀬戸際から後退できなくなっていることを認識していたことも分かっています(Ibid.)。

ケネディがキューバ危機で自らの立場を明らかにし、また国民に向けて演説した理由は、おそらく外交的な理由だけではなかったはずです。当時のアメリカは大統領選挙の最中であり、国内政治においても重要な局面に差し掛かっていました。ケネディがどの程度まで意図的に振舞っていたのかについては、不明点も残りますが、フルシチョフがケネディの決意を認識していたこと、そしてソ連にとって最適な条件でアメリカとの合意形成を図る余地がないことを認識していたことは、観衆費用が外交交渉の結果を左右したことを示唆しています。

参考文献

Fearon, J. D. (1994). Domestic political audiences and the escalation of international disputes. American political science review, 88(3), 577-592. https://doi.org/10.2307/2944796
Smith, A. (1998). International crises and domestic politics. American Political Science Review, 92(3), 623-638. https://doi.org/10.2307/2585485
Trachtenberg, M. (2012). Audience costs: An historical analysis. Security Studies, 21(1), 3-42. https://doi.org/10.1080/09636412.2012.650590

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