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エスカレーションとは何か、どのような戦略が考えられるのか?『エスカレーション論』の紹介

20世紀のアメリカの研究者で、軍事学における核戦略理論の発展に貢献した研究者にハーマン・カーンがいます。アメリカのシンクタンクであるハドソン研究所に所属していた研究者で、国際的な危機で紛争状態の水準が上昇するエスカレーション(escalation)に特有の戦略行動を分析した業績で知られています。『エスカレーション論(On Escalation)』(1965)は彼の主著の一つです。

Kahn, H. 2009(1965). On escalation: Metaphors and Scenarios.  Routledge.

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カーンは『エスカレーション論』で、核戦争が実際に遂行される可能性を念頭に置いています。これ自体が受け入れ難い立場だと思われるかもしれませんが、彼はそれを積極的に推奨しているわけでも、消極的に擁護しているわけでもありません。核保有国が核兵器を使用して戦争を遂行する能力を持っている限り、それが現実に起こり得るものとして想定しておくことが安全保障の研究として必要なことだと見なしているにすぎません。

カーンは、核戦争の可能性が国際政治における武力行使のあり方を抜本的に変えたという見方に反対しています。というのも、核戦争が勃発するからといって、それが直ちに全面的な核兵器使用に繋がるとは限らないためです。むしろ、より小規模かつ限定的な核兵器使用から始まり、紛争状態の水準が段階的に上昇するものと想定することが必要です。この段階性がエスカレーションの特徴であり、カーンはエスカレーション・ラダー(エスカレーションの梯子)を44段階に区切っており、国際的な危機が発生する前の段階から、敵国の人口密集地に対して核兵器を使用する段階までが幅広く想定されています。

カーンの見解によれば、政策決定者が最も慎重になるのは、核兵器を使用する段階に移行する前の段階であり、この一線を越えたならば、交戦国は核兵器を用いた交渉が始まります。ただし、1発でも核兵器が使用されたならば、もはや核戦争は避けられないというわけではありません。カーンは核兵器の使用が紛争状態の水準を押し下げる効果をもたらす場合さえあるだろうと考えています。なぜなら、核兵器は住民がほとんど存在しない無人地域に対して威嚇的、警告的に使用されることもあれば、軍事目標に限定して使用されることもあるためです。そのような核兵器の使用は、交渉において全面的な核戦争を避ける意図があることを伝える効果が期待されます。

カーンはこのようなエスカレーションの過程には、軍事的優位を求めて遂行される戦闘を利用する戦略と、この戦闘から生じたエスカレーションの脅しを利用する戦略があると整理しています。これは一見すると、戦争を政治的交渉の一部として捉えるカール・フォン・クラウゼヴィッツの理論を核戦略に拡張したもののようにも読み取れますが、カーンとクラウゼヴィッツには基本的な戦争観で大きな違いがあります。それは、クラウゼヴィッツが机上の戦争と現実の戦争を区別するものとして、その意義を強調した摩擦がカーンの核戦略では考慮されていないのです。これがカーンの理論の弱点だといえるでしょう。

クラウゼヴィッツが述べたように、戦争状態で意思決定者は状況を十分に認識できず、常にノイズとシグナルが入り混じった情報をもとにして決断を迫られています。都市部のような人口密集地に対する核兵器の使用を思いとどまりながら、敵国との交渉で合意を形成するために限定的かつ小規模な核攻撃を実施するという戦略(エスカレーション・ドミナンス)を実行するためには、核戦争の最中でも情報網が生き残っており、戦域で何が起きているのかを知ることができるだけでなく、意思決定者が必要な命令を伝達するための指揮統制システムが機能していることが前提とされています。

このような限界があることを理解しなければなりませんが、それでもカーンが考察した核戦略は1960年代の論争に大きな影響を及ぼしており、その後の研究を進展させる上で有意義なものであったといえます。また、核戦力を軍事的優位を獲得するための戦力ではなく、むしろ合意を形成するための交渉の材料として位置づけています。これは核兵器を抑止の兵器として位置づけようとした従来の核戦略とは性質が異なっています。

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