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論文紹介 現代の安全保障環境で最も警戒すべきは既成事実化の戦略である

2014年2月、ロシアはウクライナ南部のクリミア半島に部隊を送り込み、これを支配下に置いた上で、一方的に併合することを宣言しました。クリミア半島がウクライナの領土の一部であることを認識した上で、それが事実上、ロシアの支配下にあるという既成事実を作り出し、それを根拠に自国の勢力を拡大する戦略は既成事実化戦略と呼ばれていますが、最近まで十分に検討されていませんでした。

ダン・アルトマン(Dan Altman)は、「強制ではなく、既成事実によって(By Fait Accompli, Not Coercion)」(2017)において、既成事実化戦略の重要性がこれまでの研究で過少に評価されてきたことを指摘し、現代の世界でこれがいかに多用されてきたのかを調査しています。

Altman, D. (2017). By fait accompli, not coercion: how states wrest territory from their adversaries. International Studies Quarterly, 61(4), 881-891.

著者は既成事実化戦略の特性を説明するため、次のような状況を想定しています。武装した強盗が、裕福な男性と出会い、その財布を奪い取ろうとしています。ここで強盗が選択できる行動は3つあります。第一に、強盗は、その男性を殺害し、財布を奪い取ることができます。これを強奪(brute force)と呼ぶことにします。第二に、強盗は武器を見せつけ、脅すことにより、男性に自分の財布を差し出させることができます。これは強制(coercion)と呼ぶことができます。第三に、強盗は男性に向かって手を伸ばし、財布を掴むことで、男性に武装した強盗に抵抗しても、それを取り戻すことはできないと思わせることもできます。これが既成事実化(fait accompli)です。国際政治学の研究者がこれまで注目しがちだったのは、第一と第二の戦略であり、第三の戦略の意義は見過ごされてきたと著者は主張しています。

既成事実化という戦略が実力を行使する強奪や、あるいは実際には実力を行使することがない強制に対して特徴的なのは、強奪ほど徹底的に敵を武装解除することがなく、かといって強制ほどには礼儀正しく振舞うわけではなく、一方的な実力の行使が含まれる場合があるという曖昧さがあることです。トーマス・シェリングの戦略理論では第一の強奪と第二の強制が明確に区別されていましたが、著者はこの枠組みでは既成事実化を捉えることができないと問題視しています。戦略として既成事実化は敵国を完全に打倒し、その政策を抜本的に変更させるには適していません。しかし、それは小さな利益を実現したい場合に有効である場合があり、実際に限定的かつ小規模な範囲で領土を奪い取る場合に採用されてきました。

1918年から2016年までに記録された既成事実化の試みに関するデータを独自に整理収集しました。これは既成事実化戦略がそれ以外の戦略に比べて注目されにくく、またそのために分析対象となりにくかったためです。既成事実化戦略では、標的国の側が既成事実を黙認せず、武力を伴う対応をとることでエスカレーションを選択すると、戦争になります。その典型的な事例は1981年にアルゼンチンがイギリスの領土であるフォークランド諸島を軍事占領したことでした(フォークランド紛争)。このような事例はよく記録され、分析も活発に行われます。しかし、このような事例は既成事実化戦略の失敗例であるため、それだけに注目するとバイアスが生じると著者は指摘します。既成事実化戦略が成功した場合、それは小規模かつ限定的な武力の行使とされます。1961年にインドがポルトガルの植民地だったゴアに軍事侵攻した際には局地的な抵抗があったものの、ポルトガルは軍事的に有効な反撃ができませんでした(1961年12月のゴア併合)。この事例は既成事実化戦略の成功例として評価できるものですが、フォークランド紛争のような大きな注意を払われることがありませんでした。

著者が行ったデータ分析の結果によれば、既成事実化戦略によって領土を獲得する事例は第二次世界大戦が終結した1945年以降に増加する傾向があります。1918年から2016年までに計測できた事例は112件、そのうちの82件が1945年以降の事例です。2014年にクリミア半島の事例は最も新しいものですが、その前には2010年にニカラグアが国境を越えてコスタリカの領土であるカレロ島に進駐し(コスタリカ・ニカラグア国境紛争)、2008年にはジブチがエリトリアとの間で領土紛争があったラス・ドゥメイラ岬に進駐する事態が発生しています(ジブチ・エリトリア国境紛争)。これら以外に2000年代に起きた事例としては、2002年にモロッコとスペインが対立しているペレジル島にモロッコ軍が進駐して起きたペレジル島危機があります。このように、既成事実化戦略は世界各国によって継続的に使用されていることが確認できますが、1918年以降に国際社会で他国の領土を征服する試み全体が急減しており、着実に国家間の暴力は抑制されています。そのため、著者の分析は外国の領土を強奪によって、あるいは強制によって手に入れる事例が減少するにつれて、その代替的戦略として既成事実化戦略が使用される事例が相対的に増加していることを示しています。

日本の読者にとって興味深いのは、中国がこの既成事実化を用いる可能性について著者が日本に対して警告している点です。結論で著者は次のように述べています。

「現在、ベトナムやフィリピンによって占められている島嶼部を、中国が突如、既成事実として奪い取る可能性が高いのだろうか。それとも、代わりに強制的な脅しをかけることによって隣国のいずれかが島嶼部を放棄することに同意するように仕向けるのだろうか。理論的に考えれば、中国はどちらのアプローチをとることもできる。しかし、この数十年間にわたって国家が領土を獲得する方法としてきたのは前者だけである。これと同じように、尖閣諸島をめぐって中国との紛争に備える日本の取り組みは、中国の陸戦隊が島嶼部を占領したというニュースで電話が一日中鳴り続けることになるようなシナリオに焦点を合わせるべきである。たとえ中国が強制力を行使しようとしても、日本は声明で発せられた要求を無視できる。そうすれば、中国による潜在的な領土強奪のシナリオは表舞台に再登場するだろう。東アジアで重大な危機や戦争を回避するためには、島嶼部の強奪という形態の既成事実化を抑止することが重要な課題である」

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