見出し画像

論文紹介 なぜ2014年にウクライナはクリミアを奪回しなかったのか?

2014年2月、ロシアはウクライナの領土だったクリミア半島に軍隊を送り込み、この地域を軍事占領するだけでなく、一方的に「併合」したことを宣言しました(クリミア危機)。

ロシアの軍事行動がウクライナの領域主権を侵害していることは明白だったので、当時のウクライナ大統領代行であるオレクサンドル・トゥルチノフは2月28日に国家安全保障防衛会議を開催し、クリミア半島を武力で奪回することを提案しましたが、その提案は否決されています。つまり、ウクライナはロシアと本格的な戦争状態になることを避ける決定を下していたのです。

最近、ウクライナ政府が機密解除した史料を調査した研究者が、このような決定に至った理由として、ウクライナ軍がロシア軍に対して相対的な軍事力で劣勢であったことを挙げています。この記事では、トゥルチノフが提案した武力奪回が実行されなかったことに注目した論文を紹介したいと思います。

Lenton, A. C. (2021). Why Didn’t Ukraine Fight for Crimea? Evidence from Declassified National Security and Defense Council Proceedings. Problems of Post-Communism, 69(2): 145-154. DOI: 10.1080/10758216.2021.1901595

2014年2月28日に開催された国家安全保障防衛会議の記録は、ウクライナ政府によって2016年2月に機密指定を解除されました。世界的に見ても、これほど短期間でこの種の機密指定が解除されることは珍しいといえます。

この「早すぎる」機密指定の解除措置については、まだ政界で活動する多数の関係者が政治的な意図があるなどと批判していますが、その記録の内容が改変されていると主張した人物がいないことを考慮すると、史料として一定の信頼性が確保されていると考えられます。

ウクライナの憲法では、国家安全保障防衛会議の任務を国家安全保障に関する行政活動の調整と統制として定めており、大統領が議長を務め、総理大臣、保安庁長官、国防大臣、内務大臣、外務大臣が議員を務めます。議決のためには大統領を含めた過半数の賛成票、つまり4票が必要であるため、大統領の一存では安全保障に関する政策決定ができない制度になっています。

当時、大統領代行だったトゥルチノフは議長として2月28日に会議を招集し、その冒頭でウクライナの領土の一体性を守る必要があると強調し、その具体的な方法について議員に提案を求めました。この会議は政権を発足させてから1週間余りしか時間が経過していない混乱した状況の中で実施されています。

まず、クリミア半島がロシア軍に占領され、事実上の新政府が立ち上げられていることが報告されており、ウクライナとしてはロシアや親ロシア派に口実を与えないため、挑発を避けるべきであるという主張が繰り返し出されていました。ウクライナ軍の能力に不備があることが認識され、軍隊は戦意を喪失していること、特にクリミアに駐留する1,000名ほどの部隊はロシアに対して降伏しようとはしていないものの、抵抗しようとしていないと報告されています。事実、当時のウクライナ軍が動かせる兵力は15,000名ほどにすぎず、実質的には2,000名ほどしかクリミア半島に対する攻撃に投入できない厳しい状態だったようです。

以前からロシア軍のセヴァストポリ海軍基地には25,000名の兵力を駐留させることが認められていたので、たとえウクライナ軍が攻撃を加えたとしても、相対戦闘力で劣勢であることは明白でした。さらに状況が厳しかったのは、どの国もウクライナを支援する用意がなかったということです。外交の面でもウクライナは備えが不十分でした。会議で外務大臣が行った報告によれば、ウクライナが軍事的手段でクリミア半島を奪回し、ロシア系の住民が一人でも犠牲になれば、全世界に向けて戦争犯罪として告発すると脅されていました。

この会議ではロシアがウクライナの他の地域にも軍隊を送り込む可能性があることも議論されており、キエフ、ハリコフ、ドネツクの周囲に38,000名のロシア軍の部隊が展開しているという情報も示されました。国防大臣の見解では、ベラルーシの方面からキエフに向けてロシア軍が攻撃を開始した場合、24時間以内にキエフを失うだろうという予測を述べています。

会議では議決権を持たない出席者からも、ウクライナから軍事行動を起こせば、エスカレーションを引き起こし、国家全体を危険に晒すという懸念が示され、トゥルチノフの反攻案に反対する意見が出されています。北大西洋条約機構の準加盟国となること、戒厳令を発令すること、クリミア半島の領空を閉鎖することなどの提案もありましたが、ウクライナ軍の戦闘準備を推進すること、防衛計画を立案すること、国外に友好国を求めることに留められました。トゥルチノフが望んだクリミア半島への反攻は実行されなかったのです。

著者は記録からクリミア半島を奪回するために、ロシアとの戦争をエスカレートさせる危険を回避すべきと主張したことは、国際政治学のリアリズムの理論によっておおむね説明が可能だと論じています。軍事バランスは2014年のウクライナ政府の意思決定に重大な影響を及ぼしており、ロシアの圧倒的な軍事力に対抗できなかったために、クリミア半島の喪失を受け入れざるを得なくなりました。

論文で取り扱っている内容はここまでですが、ウクライナはこの決定の後の4月にドネツク州、ルガンスク州の一部を実効支配した親ロシア派の武装勢力の脅威に対処することになりました(ドンバス戦争)。ウクライナ軍は直ちに鎮圧に乗り出しましたが、同年8月にロシア軍が軍事的に介入してきたため、ウクライナ軍の攻勢は押しとどめられ、両州を奪回するまでに至りませんでした。クリミア危機から始まった2014年の一連の戦いは厳しい結果に終わったといえますが、このときの経験から多くを学んだからこそ、2022年2月のロシア軍の侵攻に抵抗することができているのだと思います。

関連記事


調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。