▶「広島平和記念日」に寄せて ◀(2024年8月6日)
8月6日は「広島平和記念日」です。広島市が制定した記念日で、世界平和を祈る日となっています。1945年8月6日、午前8時15分に、原子爆弾が広島市内に投下されました。
毎年、広島市の平和記念公園では「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が行われています。今年も午前8時から始まります。
去年は高校3年生と小学4年生を担当していて、高校3年生には公民演習の授業で、小学4年生には国語の「一つの花」で、8月6日について話をしました。
今年は中学1年生から中学3年生の社会科を担当しています。中学3年生は、歴史的分野の近現代史や、公民的分野の平和主義のところで既に8月6日について話をしています。しかし夏休み明けに、どの学年でも79年前の8月にどんな出来事があったのか話をしようと思います。
合わせて「平和」とは何なのか、その意味を表面的になぞるのではなく本質的な部分で考えていったとき、それが「戦争」の単なる対義語ではなく、私たちの現在の生活の様々な部分に根を張っている問題であり、「昔」という時間的に離れたものでも、「どこかの外国」という空間的に離れたものでもないと気づいてもらえるような働きかけをしたいと考えています。
その際、教員になったばかりの頃、夏休みを利用して広島を訪れたときの写真も紹介しながら展開しようと思います。
UNESCO憲章の前文には次の有名な一節があります。
「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」
UNESCOは日本語では、「国連教育科学文化機関」と表記されます。なぜ教育・科学・文化に関わる国連機関が、その設立文書である憲章前文で戦争について語っているのでしょうか。
世界に存在する多様な価値観をお互いに尊重し合える状態であるならば、人間の叡知や理性(ロゴス)が健全に機能しているといえます。しかしそれが機能マヒに陥ってしまうと、人間の本能的な部分(情念、パトス)に思考も言動も支配されてしまいます。そのとき、人間は、ホッブズの言葉を借りるならば「自己保存の欲求」を優先させてしまうため、自己防衛ゆえの他者排除に走り、不寛容の状態に突き進んでしまうと思います。
ではどうすれば叡知や理性というものが健全であり続けられるのでしょうか。デカルトの言葉を借りるならば「高邁の精神」によって自分自身を制御し続けられるのでしょうか。
その一つが「世の中には様々な『違い』が存在していて、それが自然なこと・当たり前である」と認識し生活できている状態にあるかどうかだと思います。それこそが「多様性の認識」「異文化理解」「多文化共生」です。
この点について授業で考えたり(理解・理論)、授業の場自体でその実践がなされたりしているとき、「インクルーシブ教育」が展開されていると思います。そして、そのような実践が積み重ねられていくことで、徐々に「インクルーシブ社会(インクルーション)」が整えられていくと私は考えています。
もちろん「インクルーシブ教育」にしても、「インクルーシブ社会(インクルーション)」にしても、一筋縄で片付くものではなく、道のりは長く険しいと思います。
しかし現在の国際社会も、悪戦苦闘・試行錯誤・一進一退・紆余曲折という長く険しい道のりを歩みながら、ようやく現在のように多くの国家が参加し、普遍性の高い国際条約を作ることができるところまでやって来たわけで、一朝一夕に実現するものなどないわけです。
ですから「インクルーシブ教育」も「インクルーシブ社会(インクルーション)」も、大きな物語として構えることなく、身近なところから、草の根的なものから着手し、悪戦苦闘・試行錯誤・一進一退・紆余曲折を覚悟して粘り強く取り組まねばならないと思います。そうして実現していくものは、見栄えが良かったりかっこ良かったりしないし、たったこれだけと思われるかもしれません。しかしそれが過去よりも着実に動いているのは間違いありません。
それは大きな物語という意味での「理想」ではありませんが、自分の一つひとつ取り組みが世界を大きく変えるような契機になるはずだと信じるという意味での「理想(ロマン)」だと思います。そんな「理想(ロマン)」を持って、夏休み明けは「平和」についての働きかけをしようと思います。
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