田嶋剛希/Goki Tajima

柔道家🥋

田嶋剛希/Goki Tajima

柔道家🥋

最近の記事

筑波大学一年生編③

全日本学生の直後に体重別団体の校内予選が行われた。 各階級2名登録。90kgは4人いて、1人は決まっていた。初期登録は田嶋になっていたが、もう1人は全日本学生の試合結果で決めることになった。が、その3人仲良く2コケだったので校内予選になった。 同級生と四年生の先輩になんとか勝って、メンバーにぎりぎり入る事が出来た。 体重別団体は尼崎の会場。 交通費やホテル代を、選手はOB会費から出してもらえる。 選手以外は自費での応援。夜行バスで来る同級生とかもいて、下手な試合は出来ないと

    • 筑波大学一年生編②

      団体戦が終わって少し経ってから茨城県ジュニア。 この大会も当日計量でしんどかった。 同級生に高校選手権決勝を戦った選手がいたが、手術明けで試合に出れなかった。 そのため、割と楽に勝てた。 相手がほぼ高校生で、 『高校生に負けたら坊主ルール』 があったから負けられなかった笑 決勝戦は、岡田総監督の次男だった。笑 父親同士で「完敗でした」と岡田先生から話しかけられたそう。 岡田先生が現役バリバリだった頃、父母が高校生くらいでスター選手。母はしっかりサインもらってた。笑 県ジュニ

      • 筑波大学一年生編①

        入学式。特になんてことはなかったけど、変な歌を歌っていた。 初のスーツや、全く新しい仲間たちにワクワクしながら、新生活が始まった。 まず困ったのは履修登録。 自分で必要な単位や受けたい授業を踏まえて時間割を作る。 分厚い本から必要なところを探すのが大変だった。全学群の授業があり、必要最低限の情報でいいのに、情報量が多すぎて探すのに困った。 モデルとしてはこんな感じで、ここのコマは選択必修です。くらいな感じにまとめてくれれば楽なのに、、、 同じ授業でも学籍番号の下一桁が奇数か偶

        • 国士舘高校卒業編

          年始すぐにトレーニング等みていた後輩が選手権予選に出た。 仲間同士の潰し合いに敗れ、初戦敗退。 泣きながら勝てなくてすみません、と謝ってきたのを覚えている。 そんな謝罪はどうでもよくて、ただ一生懸命やってくれたことが、とにかく嬉しかった。 もう1人の後輩は、都大会を優勝して本戦に繋げた。そのもう1人が翌年の高校選手権を獲るのはまた先のお話。 卒業前バイトが許される時期があった。 家の基礎を作る職人の仕事をさせてもらった。 真冬なのに汗だくになりながら働いた。 仕事全体を体験

        筑波大学一年生編③

          国士舘高校三年生秋編

          文化祭では柔道部総出で餅作りを売ります。 釜で米を炊く係、餅をつく係、切り分け味付け係、販売係などなど様々な仕事があり、中高6学年で協力して行います。 中学一年生から高校三年生までみんなで役割分担するため、誰も文化祭を楽しむ事はできません。笑 そんな中、女装コンテストや歌コンだったりでこっそり抜けて行く高校生に監督はいつも怒っていました。笑 田嶋も女装コンテストに出場したことがあり、だいぶキモかったです。 失敗したブルゾンちえみの様でした。笑 文化祭は餅で何もできないため、そ

          国士舘高校三年生秋編

          国士舘高校三年生夏編

          この夏も個人的な追い込みをした。 選手として午前練習、午後も投げ込みなどしっかりあるため、二年生の時ほど自主練の量は多くなかったが、朝走ったり空いてる時間にウエイトなど行った。 やっぱり選手としての追い込み練習はキツかった。合間をぬって筑波大のAC入試の論文を書いた。 そして本番は一瞬で訪れた。 まずは、金鷲旗。 同級生同階級のライバルが抜き役に抜擢。 確か全部で14人抜きし15試合してチームを牽引。 へとへとになりながらも、これが俺の仕事だとばかりに意地で戦っていた。すげ

          国士舘高校三年生夏編

          国士舘高校三年生春編

          いよいよ最終学年が始まった。 目標は個人団体合わせて『五冠』 インターハイ予選まであっという間だった。 まずは支部大会。 ここでライバルの同級生も怪我から復活して参戦。 日体荏原に強豪選手2人もいてハイレベルな支部大会だったが、同級生と2人で決勝を戦った。 この時は私が勝ち、都大会でも決勝で戦おうと話した。 都大会では、準決勝で日体荏原の選手に負けた。 試合の時、日本一になった選手としてのプレッシャーを無駄に感じていた。 勝たなきゃいけないとか、強さを証明しなきゃいけない、

          国士舘高校三年生春編

          国士舘高校三年進路編

          『監督、進路について話があります。両親に来てもらうので、いつ都合が良いですか?』 『分かった、何曜日何時から学校の小会議室で』 その日まで頭を整理して、担任とも作戦会議をした。 独特な空気感の中、私の 『筑波大学に行きたいです』 から四者面談が始まった。 •将来教員になりたい •しっかり勉強もしたい 以上2点の簡潔な理由で議論を始めた。 父から 『本人のやりたいようにやらせたい』 監督からは、 歴代の他大進学のOBたちがどうなったか、隣の芝は青い、もう一度考え直せ、などなど

          国士舘高校三年進路編

          国士舘高校二年生選手権

          人生初の全国大会開幕。 半端ない緊張があった。だけど、普段稽古をつけてくれた大学生や、強すぎるチームメイトとの練習を思い出すと、『稽古してきた相手より強い奴はいない』と思えた。 自分の良さを存分に出して暴れてやろう、楽しくやろうと、緊張よりもワクワクが勝った。 試合前廊下である先輩と話した。(2017.18.21年の世界女王) 『インタビューです。本日優勝の田嶋選手、今の気持ちをどうぞ!』 『サイコーでーす!』 『その気持ちと勝った自分をイメージするのが大事だよ』 試合前に

          国士舘高校二年生選手権

          国士舘高校二年生冬

          年明け早々に支部予選。 同じ階級の同級生は、松尾杯で取られた関節技のケガで出れなかった。 1回戦は一つ下の後輩で、一本勝ち。 準決勝は松尾杯で負けた相手。 開始数秒で技ありを取って、その数秒後にもう一度投げて一本勝ちした。 『なんでこの間負けたんだ』 監督に怒鳴られた。自分でも不思議な気分だった。 支部予選決勝は、まさかの打ち込みパートナーだった。 彼は変態柔道をするのだが、準決勝で日体荏原の主力に華麗な一本勝ち。恐ろしい男だ。 しかし彼は私と相性が悪いので、私が勝った。

          国士舘高校二年生冬

          国士舘高校二年生秋

          夏休み明けてすぐに行われる、学年別の三人制団体都大会。 1年はケガで出れなかった思い出深い大会。 同級生で1番強い選手を除いたメンバーで出場した。 準決勝戦まで、出た試合は全て一本勝ちした。投げたり抑え込んだり、内容がとても良かった。 試合にさえ出れればこんなもんでしょ! 相手が強豪でなかったにしろ、少し自信がついた。 そしてこの大会を皮切りに、田嶋は長い長いサナギ状態からの羽化が始まった。 決勝戦は日体荏原。 全中優勝メンバーの3人が相手メンバー。 (小野中のほとんどが日

          国士舘高校二年生秋

          国士舘高校二年生夏

          金鷲旗、IHの時期、学校は夏休みの時期になった。 当然メンバーに選ばれることもなく、一年生2人、二年生2人、三年生2人という構成だった。 ただ練習相手にはなったので、乱取り稽古などはほぼ全部参加できた。 当時から腰が重く投げ辛い私は、選手からは相当嫌がられていた。(と思いたい) この夏休みは、人生史上最高に自分を追い詰めた時。 朝→1人でラントレ 午前→全体稽古 昼休憩中→ウエイト 午後→全体稽古 夜→1人でラントレor自重系トレーニング (午後は選手の投げ込みや研究中心で

          国士舘高校二年生夏

          国士舘高校二年生春

          スポーツクラス(以後スポクラ)から特進クラスへ移った私は、まず浮いた。 スポクラは恐れられていた。ゴツいイカついコワい。そして偉そうにしている奴が多かったのも事実だ。 そんなスポクラから来た私はシンプルに怖かったのだと思う。人見知りな性格もあって、距離を詰めることが出来なかった。 1人で授業間移動し、1人で昼食を取った。 『去年の復習からやるよー』 という先生の言葉に、「復習?!?!」やったことも無い内容で何も分からなかった。 まず、授業について行くので精一杯だった。 それ

          国士舘高校二年生春

          国士舘高校一年生後編

          秋になる頃、東京都では学年別の3人制団体戦がある。 メンバーに選ばれていたが、夏休み末の怪我で試合場係になってしまった。 両親は来なかったが、おじいちゃんが見に来てくれた。 試合後、焼肉に連れて行ってくれた。 『試合に出ていなくても、元気な顔を見れて良かったよ』 つらかった。悔しかった。 良くなってくるといつも怪我をした。 けどそれは割と慣れていた。 自分らしいなって思いながら、できることは何か考えて行動した。腐ってる暇は無かった。 復帰する頃、裏三冠と言われる招待試合シーズ

          国士舘高校一年生後編

          国士舘高校一年生前編

          中学時代、勉強の方で学年順位はだいたい2番だった。(国士舘中学は40人ほどしかいないが) 高校に上がる際、中学担任からは一般クラスを勧められた。 「お前の頭なら普通にやっていけるし、むしろ一般クラスでやった方がいい」 それでも、先輩たちがスポーツクラスで楽しそうにしているのに憧れて、スポーツクラスを選択した。 正直、あまり良い選択ではなかった。 スポーツクラスの授業は課題を終わらせて寝ていた。 やる事やって寝てるだけで、静かだからと優等生扱いを受けた。 スポーツクラスの授業

          国士舘高校一年生前編

          国士舘中三年生後編

          全中タイトル奪取に向けての追い込みは更に厳しくなった。 本当の意味での控えに評価が変わった私は、来るか分からない出番のためであろうと必死についていった。 前まで省かれていた投げ込みなども、全て同じメニューをやるようになった。 監督にはいつでも行けるように、心の準備をしておけと密かに言われていた。 団体戦当日。チームは順調に勝つも、不調が見えていた選手は内容が悪かった。 監督は 『準決勝あいつが負けてきたら決勝はお前を使う。準備しとけ』 準決勝、その選手は引き分けで交代は無し

          国士舘中三年生後編