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国士舘高校二年生春

スポーツクラス(以後スポクラ)から特進クラスへ移った私は、まず浮いた。
スポクラは恐れられていた。ゴツいイカついコワい。そして偉そうにしている奴が多かったのも事実だ。
そんなスポクラから来た私はシンプルに怖かったのだと思う。人見知りな性格もあって、距離を詰めることが出来なかった。
1人で授業間移動し、1人で昼食を取った。
『去年の復習からやるよー』
という先生の言葉に、「復習?!?!」やったことも無い内容で何も分からなかった。
まず、授業について行くので精一杯だった。

それに加えてスポクラ時代無かった宿題や、授業の難易度、慣れない環境で少し精神的に追い詰められていた時期だった。
そこへ新入生で強力な後輩たちが入ってきた。団体戦7人目の立ち位置すら奪われた。
のちにIHの金メダルを5個と4個取る選手2人である。
必死に日々を過ごした。
自主練の量が増えていった。

1ヶ月経った頃、少しずつ授業のペースにも慣れ、クラスの友達とも打ち解け始めた。
特進クラスということもあり、この時期から進路指導があった。
特に何も考えてなかった私は、ただ何となく名前の響きだけで早稲田大学かなぁとか思っていた。
柔道については高校でやめようと考えていた。

そんなこんなでIH予選が始まった。
支部大会初戦はまた同級生だった。
この時は、よく分からない指導が相手に入りそれで勝利した。
後味の悪い試合内容だったのを覚えている。
準決勝はまた日体荏原の選手で、今回は有効を取られて負けて3位だった。
成長をあまり感じることが出来なかった。
ただ次に繋がっただけだった。

都大会では準決勝で、選手権予選で負けた安田学園の選手か、支部大会で負けた日体荏原の選手どちらかの予定だった。
それまで特に気をつける相手はいないと思っていたが、準々決勝で修徳高校の一年生に足技でポイントを取られて負ける。
これが、今ライバルでありチームメイトの増山香補との初対戦だった。

IH本戦に繋げることは出来なかったが、ベスト8に残ったことで、都Jr.と国体予選の出場枠を得た。
都Jr.では、国士舘の二つ上の先輩に2回戦で大外刈りで吹き飛ばされて負けた。
単純に実力が違いすぎて投げられたのだが、監督に
『飛んでるんじゃねぇ』と叱られるくらい吹っ飛んだ。笑ってしまった。

国体予選では、選手権予選で負けた相手に2回戦でリベンジした。
しかし3回戦で81kg級の選手に指導で負けた。
国体は60kg.73kg以下.90kg以下.100kg以下.100kg超の5階級で行われたため、81kgの選手も入り混じっての試合だった。
(優勝者が5人制団体の代表になる)
この頃から、組手がうまい選手が苦手だった。
そして夏前の試合は全て終了し、その後の試合は全部「高校最後の」がつくようになった。

春学期の試験は最悪だった。
評定平均が1年の4.5から3.4まで落ちた。
どうしてもテストで点が取れなかった。
仕方のないことだが、これによって、学校内の学業で特待生の話が遠のいた。
また、進路指導のお陰で大学について調べるようになり、私は筑波大学に魅力を感じた。
中高と学費で親にたくさん苦労かけた私にとって、国立大学の学費の安さは大きかった。

大学で柔道続ける気が無かったため、大学柔道に興味がなかった。
(筑波大が強豪校と知らなかった)
しかし、国士舘大の応援で見に行った全日本学生優勝大会で、準々決勝で国士舘大と当たり筑波大が勝った。
え、そんな強い学校なの?
と自分の無知を笑った出来事だった。

夏へ

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