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国士舘高校二年生冬

年明け早々に支部予選。
同じ階級の同級生は、松尾杯で取られた関節技のケガで出れなかった。
1回戦は一つ下の後輩で、一本勝ち。
準決勝は松尾杯で負けた相手。
開始数秒で技ありを取って、その数秒後にもう一度投げて一本勝ちした。
『なんでこの間負けたんだ』
監督に怒鳴られた。自分でも不思議な気分だった。

支部予選決勝は、まさかの打ち込みパートナーだった。
彼は変態柔道をするのだが、準決勝で日体荏原の主力に華麗な一本勝ち。恐ろしい男だ。
しかし彼は私と相性が悪いので、私が勝った。
『手を抜いてんじゃねぇ』
と彼は監督に叱られていた。笑
散々投げ込みを受けてもらったり、たくさんマッサージやらストレッチなど色々やってもらっていた。
私生活でも共に過ごした時間が長い、そんな彼と決勝を戦えて嬉しかった。

負けたら自分の柔道人生に一区切り打つと決めた都大会の時が来た。
順調に勝ち上がり、準決勝は松尾杯で負け、支部予選では秒殺した相手。
正直苦手だった。
開始すぐに技ありを取るも、後半めちゃくちゃ攻められて指導を取られる。
松尾杯の二の舞は嫌だと、踏ん張ってなんとか逃げ切った。
試合中何度も負けがチラついた。なんとか、耐えた。

支部で決勝した後輩は、準決勝でリベンジされ、決勝戦は日体荏原の同級生となった。
過去戦績は1勝1敗。
試合は相手の組手の技術に翻弄され、ペースを掴めないまま指導をもらった。
「絶対勝つ」それだけは自分に言い聞かせた。決勝の前からバテていた。指導も取られ、もうキツいかと思った残り30秒、
「そういえばアレ使ってないな。イケそう」
逆の一本背負投で技ありを取り逆転勝利。
人生で初めての全国大会の切符を掴んだ。

都大会を優勝しても涙はなかった。
『自分なら出来る』と思っていたし、やっと勝てたかって位だったが、父は泣き崩れ、母は過去最高の笑顔で写真を撮りに来た。

(父は、この時私が柔道やめるかどうかの戦いで、社会人までの試合全部の中でこの日が1番印象に残っているそうです)

個人戦翌週に団体戦。
基本的に一年生を起用したが、要所要所で使って貰えた。
足立学園戦では2人抜いて3人目で負け。
日体荏原戦では引き分け。
監督にめちゃくちゃ怒られた。
『引き分けで良いと思うな。個人戦で勝ったからって調子に乗るんじゃ無いぞ』
と釘を刺された。

この時期からパワーリフティング部の練習に参加。
(国士舘高校パワーリフティング部は、毎年1人一般生を勧誘して鍛え上げ高校トップまで育て上げる。
同じクラスの子が所属していたが、3月末の大会では見事全国優勝した)
高校選手権までの3ヶ月間でスクワット、デッドリフト共にMAXが50kg程増えた。
これが田嶋の爆発力の元になったと言っても過言では無い。
追い込まれた後の練習は、生まれたての子鹿のようにピクピクしながら頑張った。

団体メンバーに初期登録はされなかった。
『お前は怪我もあるから外しておく。調子次第で前日に選手変更する。とりあえず個人でも団体でも勝てるように準備しろ』
個人戦に出ると、変更が出来ないための対処だった。
追い込み稽古がきつすぎて、食べても食べても痩せていった。
いつも下手な減量してる自分としては、ありがたかったし追い風となった。

良い状態で試合を迎える。
『2日間戦えるなら、お前にメンバー変更する。この先は変えられないし、明日の個人戦で怪我しても出てもらうぞ』
『やります!』
分かった。と同時にメンバーの同級生に変更が告げられる。
彼の悔し涙をみて、半端な試合はできないと覚悟が決まった。

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