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国士舘高校二年生秋

夏休み明けてすぐに行われる、学年別の三人制団体都大会。
1年はケガで出れなかった思い出深い大会。
同級生で1番強い選手を除いたメンバーで出場した。
準決勝戦まで、出た試合は全て一本勝ちした。投げたり抑え込んだり、内容がとても良かった。
試合にさえ出れればこんなもんでしょ!
相手が強豪でなかったにしろ、少し自信がついた。
そしてこの大会を皮切りに、田嶋は長い長いサナギ状態からの羽化が始まった。

決勝戦は日体荏原。
全中優勝メンバーの3人が相手メンバー。
(小野中のほとんどが日体荏原に進学)
こちらは当時補欠の田嶋が先鋒。
2回投げて優勢勝ち。内容としては圧倒的だった。
夏休みの成果が出たと、今までの4年半は無駄じゃ無かったと、深夜までずっと興奮して寝れなかった。

学年別の都大会は、片手の背負投が決まり始めた大会でもあり、ここで大きなアピールをしたから年末の団体戦にも使ってもらえる転機となった。
この時期の第8支部や第2支部の新人大会も勝つ事が出来た。
黒潮旗は2年に1回のため無かったが、松尾杯、若潮杯とメンバーに選ばれた。

そして合間を縫って、メンタルコーチのセミナーや体験コーチングに参加した。
試合の時や普段の練習でも、考え方1つで大きく変わることを学んだ。
例えば怪我した時、怪我を悔やんだり、あの時ああすればこうすれば、をいくら考えても怪我は治らないし、時間の無駄である。とか
自信を持つためのちょっとした工夫。などなど、本当に些細な変化ではあったが、私個人としては大きな財産になった。
ここら辺から、とにかく『試合を楽しむ』ことが自分のモットーになった。
練習で死ぬ思いしてるんだから、試合くらい楽しまないともったいない。と。笑

松尾杯はチームの1.2番手を外したメンバーで臨んだ。しかし、試合前の練習中に2人が怪我。試合中に1人負傷し、準決勝は中堅無しの4人で戦うことになった。
相手は日体荏原高校。
先鋒がポイントを取っていたのに残り数秒で関節技一本負け、そして次鋒は田嶋。
負ければ即チームの負けが決まる場面で出番が来た。

ここでの対戦相手は、大学、社会人になっても戦い続ける相手との初対戦だった。
開始すぐに技ありを取り、手堅く守った。指導を2つ取られた残り30秒、技ありを取り返されてしまう。
指導2だと、引き分けではなく負けルール、急いで取り返しに行くも敗戦。
チームの負けが決まった。

後ろ2人は勝ったが2-3で負けた。
先鋒は同じ階級の同級生だった。
2人して監督に死ぬほど怒られた。
『お前らは二度と使わん。勝ってる試合をなぜ落とす。許さん。帰って練習だ』
帰っても練習は無かったが、ずっと怒られていた。
すぐ若潮杯があり、私はちゃんと使ってもらえたが、同級生は関節技を無理に耐え、怪我で出れなかった。

若潮杯では、1つ下の後輩と交互に先鋒を担当した。
松尾杯とは変わってフルメンバーで臨んだ。
決して楽な試合は一つも無かったが、チーム全体が強すぎて圧勝で勝ち上がった。
決勝戦の相手は東海大相模。
もちろん小学生の頃からのライバルもメンバーで、お互い先鋒だった。

試合は、あっけなく終わった。
開始1分程して、寝技に引き込んでそのまま抑え込んで一本勝ちした。
寝技のワンチャンスをモノにし、流れを掴んだ。
チームは4-0の圧勝。
『高校三冠』の目標がリアルになって、自分がその一員になるんだと、強く思った。

その後合宿や練習試合を乗り越え、年末年始の休みになった。
大学進学において、もっと勉強に時間を割く必要性を感じていた。
高校選手権の個人戦で全国にすら出れなかったら、団体メンバーも無いし、柔道を諦めて勉強に専念しようと考えていた。そしてそれを両親に伝えた。
『そっか』と少し残念そうな顔をしていたが、
『お前がそう言うなら、、、でもちゃんとやり切れよ』と言ってくれた。
覚悟が決まった。

冬へ

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