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国士舘高校二年生夏

金鷲旗、IHの時期、学校は夏休みの時期になった。
当然メンバーに選ばれることもなく、一年生2人、二年生2人、三年生2人という構成だった。
ただ練習相手にはなったので、乱取り稽古などはほぼ全部参加できた。
当時から腰が重く投げ辛い私は、選手からは相当嫌がられていた。(と思いたい)

この夏休みは、人生史上最高に自分を追い詰めた時。
朝→1人でラントレ
午前→全体稽古
昼休憩中→ウエイト
午後→全体稽古
夜→1人でラントレor自重系トレーニング
(午後は選手の投げ込みや研究中心で、自分はほぼ立っているだけ)
日曜日以外意地になってやり通した。
『これで結果出なかったら柔道なんかやめてやる』
そんな変な覚悟を抱えて始まった夏休み。
しんどくてもやり続けた。
才能無いからやるしか無い。
この年は選手以外の三年生が多かったため、選手以外の下級生を連れて行くことなく金鷲旗に向かった。
その時残った組で、コーチが午後の練習をサッカーにしてくれたのも良い思い出だ。

金鷲旗は修徳高校に負けて3位だった。
1.2年生が多い若いチームだったが、それでも優勝すると思っていたので意外だった。
抜き戦では一つ勝って次引き分けることが大事で、相手にそれをされてしまった。
選手以外の三年生が声を枯らして帰って来たのが印象的だった。これがチーム愛かと強く感じた。
チームメイトから愛される。支えてもらう。これが勝つチームには必要だと学んだ。

筑波大は夏の時期だけオープンキャンパスをする。
特進クラスの夏休みの課題でもあったため参加した。
まじめに制服を着ていたのが私だけでとても恥ずかしかった。他の人たちはみんな私服だった。
バカ広いキャンパスを歩き回り、ガイドツアー的なものが終わった後、こっそり道場を覗いてから帰った。
誰か練習してたり、会えたりしないかな、、、なんかドキドキした。

オープンキャンパスでは学群毎にツアー的なものがあった。
私は体育ではなく教育学群の方に参加したため、周りは賢そうな人しかいなかった。
今考えても教育学群の方に勉強で入るのは、だいぶ学力が足りていないが、
『まぁなんとかなるっしょ』
と、ポジティブなアホだった。笑
柔道に割いてる熱量を、全て勉強にかければどうにかなるだろう。
それもあって、夏休みに追い込みは、意地でもやり通そうと心に誓っていた。

寮の屋上で日焼けするのが流行っていた。
私も小麦色の肌に憧がれて、パンツ一丁になって屋上で昼寝したり、水浴びした時もあった。
6階建で周りから見られることはほとんどないが、今思うと公然わいせつでみんな警察にお世話になっていたのかも知れない。
そんな青春の記憶も織り交ぜつつ、三冠タイトル最後のIHが近付いた。

IHは修徳高校にリベンジして優勝。
3年生は、メンバー6人中2人だけで、決勝には1人しか出ていなかった。
後日談になるが、先輩たちの卒業式の時に監督が
『お前たち三年生をもっと試合に出したかった。メンバーに選ばれなくても尽くしてくれた三年生たちのお陰で最後勝てた』
と監督は涙を流しながら言っていた。
私の記憶では、監督の涙はこの時が最初で最後だった。

代替わりして最後の一年間が始まった。
中学と同じく寮長になった。
高校では、投票でキャプテンなどを決める。
「主務」のところに「田嶋」が数票入っていて焦ったが、「寮長田嶋」がたくさんいたので助かった。笑

本当にあっという間、高2までに日本一という目標も、団体で活躍する目標も達成出来なかった。
高校はここから実質一年。全てが最後の大会になっていった。
IH優勝メンバー4人が残り、5人はあと1枠、補欠込みでもメンバーに入れるか、私はボーダーライン上の選手だった。

秋へ

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