『渇いた器』(短編小説)
涙は、道具だ。
四方八方から鼻をすする音が聞こえる映画館の真ん中で、僕はそう思った。スクリーンに映し出された映画はクライマックスを迎え、女優が涙の洪水を披露していた。役に入り込んでいるからこそ虚構の世界でも涙が落ちるのだ。
「映画、感動しなかったの?」
「感動したよ」
「ほんとに?」
「うん。なんで?」
「純ちゃんってさ、たまにわかんないんだよね」
「何が?」
「いつも冷静すぎるっていうか・・・」
「・・・」
妻の浩子が何を含んで言っているのかはわかっていた。彼女の「冷静」という表現は「冷めてる」の言い換えだ。どんなに感動的な映画を見ても、どんなに悲しいこと嬉しいことがあっても、僕が涙を流さないからだ。
「最後、ヒロインがベッドで別れを告げるシーン、私、涙腺が崩壊しちゃったよ」
「うん、かわいそうだったね。みんな泣いてたね」
「もしさ、あのヒロインみたいに私が若年性乳がんで死んじゃったら、純ちゃんは涙を流してくれる?」
「うん・・・たぶん」
「たぶんって何よ」
「何も手に付かないくらい悲しい気持ちになると思うけれど、涙が出るかどうかは正直わからないよ」
「何それ」
「いや、やっぱり絶対に泣くと思う」
「ほんとにー?」
泣く自信は全くないが、この話の流れでは「泣く」と言っておいた方がいいと判断した僕は、咄嗟にそう言った。心のこもっていない返答に、浩子は複雑な表情で空を見上げた。
*
高校時代のあの日を思い出す。
当時2年生でバスケットボール部員だった僕は、負ければ引退という3年生最後の公式試合をコートの外から応援していた。県大会をベスト4まで進んでいて、勝てば決勝に駒を進めることができる大事な試合だった。前半はリードしていたものの、後半に失速して逆転負け。勝てた試合だった。
試合の後、監督が「俺のせいだ。お前たちを全国に連れていきたかった」と自分を責めつつ、最後まで全力を尽くした3年生たちを労った。その場にいた部員たちは、1年生から3年生まで多くの者が涙を浮かべていた。いわゆる、青春の涙だ。
そんな中、1割くらいの部員は、悲しそうな顔をしているものの、涙は出ていなかった。それを見て少しホッとした僕も、涙の出なかった一人だった。「今ここは、泣かなきゃいけないタイミングだ」とわかっていた。もちろん悲しくて寂しくてやりきれない。なのに、僕の目から涙は一向に吹き出さないのだ。
僕は僕なりに精一杯悲しそうな顔を頑張った。涙とは自然にあふれ出てくるものだし、悲しさの感情は頑張るものではないのはわかっている。でもそうしないと、その場にいることが許されない気がした。そんな自分が嫌で仕方なかった。
その日、世界には、周囲の皆と同じ感情に染まらなきゃいけないシーンがあることを僕は知った。それ以来、涙腺が緩むべき場面に遭遇するたび、自分のことを“感情のない冷酷な人間”と思って責め続けた。いつか、両親との別れが来た時、果たして自分は号泣できるのだろうかなんてことを考える日もあった。
*
社会人になって3年目の夏、友人の結婚披露宴に招待された。
新婦が両親に向けて手紙を読むセレモニーで、会場の多くのゲストたちがハンカチを顔にあてていた。僕はいつもの通り、涙がこみ上げてはいなかった。娘の思いがたっぷり詰まった素敵な手紙に感動はしたけれど、目は乾いたままだった。
「純一は冷めた人間じゃないと思うよ」
夕暮れの帰り道、披露宴の円形テーブルを一緒に囲んでいた親友の卓也が、真剣な顔でそう言った。
「だってさ、本当に冷酷な人間なら、そのことに悩んで、俺に相談したりしないだろう」
「あー」
「涙が出ないっていうだけで、心はちゃんと動いているんだよ、純一は」
「・・ありがとう」
「昔、俺が大失恋して大号泣してた時さ、純一は一緒に泣かなかったけれど、ずっとそばにいて話を聞いてくれただろ」
「懐かしいな」
「俺、思うんだけどさ。あの日、純一は純一なりに泣いてくれていたと思うんだよ」
「涙出てないのに?」
「泣くっていうのはさ、必ずしも目から滴が垂れることだけじゃないだろ」
「あー」
「涙が出ていても、泣いていない人間なんていっぱいいるよ」
「・・・」
卓也の言葉に、心なしか足取りが少し軽くなったような気がした。同時に、自分のことが少し理解できたかもしれないと思った。
僕はまわりの人間よりも遠いのだ。心と体のあいだの距離が。
人の心は見えない。感動した時、心にとどめているだけでは誰にもわからない。だから、涙という「道具」を晒して、わかりやすく視覚的に表現することで誰かに伝わる。みんな、それが意識せずに自然にできるのだ。
とはいえ、いちいちまわりのことを意識して泣くのは違う気がする。そもそも、自分が感受性豊かな人間であることを表現しなくちゃいけないのか。
いろいろ考えをめぐらせ、自問自答を続けていたが、何が正解で何が間違っているのかわからなかった。一つはっきりしているのは、涙が出ないことで自分がこれまで損をしてきたことだ。
「なんで泣かないの?」
「無表情だね」
「純一ってクールだよね」
「悲しくないのか?」
「前の彼氏は涙もろかったなあ」
これまでの人生、さまざまな言葉を浴びてきた。自分を責めることもあった。意識もせずにナチュラルに涙があふれ出てくる友人たちがどれだけ羨ましいと思っただろう。
*
結婚15年目の夏。
僕と浩子を乗せた車は、環八を走っていた。大きな高気圧が日本列島を覆っていた休日、夫婦で久しぶりのドライブデートに出かけたのだ。
「純ちゃん、こうやって改めて見ると、白髪増えたよねー。もうおじさんだねー」
「それを言うなー」
「今度さ、感動系の映画また観に行こっか?」
「別にいいけど」
「私ね、いつか絶対に純ちゃんを泣かせるって決めてるんだ」
「はははっ、お願いします」
「それにしても不思議だよね。純ちゃんって笑う時は、顔をクシャッとさせてちゃんと笑うよね」
「そういえばそうだな・・」
浩子は少し沈黙してから、何かを言いたげな顔で、ハンドルにかけた僕の左手を見ていた。
「・・・私ね、わかってるんだよ」
「ん?」
「付き合っていた頃も含めてもう20年も一緒にいるからね」
「何?怖いんだけど」
「純ちゃんは、涙を見せないけれど、本当はすごく感情が豊かな人だ」
「・・・急にどうしたの!?」
「悲しんでいる人の話を親身になってしっかり聞くし、悲しい時は無口になったりするし、他にもいろいろ・・・」
「・・ありがと」
「私さ、純ちゃんのこと誤解してて傷つけたこともあったかなって。冷めてるとか、そういうこと言っちゃってたし」
「ああ、気にしないでいいよ」
「ごめんね」
「うん」
「・・・やっぱり、一生泣かなくてもいい」
なぜだかはっきりわからない。首の後ろから後頭部のあたりが熱くなってきた。熱が目頭のあたりまできた時、歯が小刻みに震え出して、視界が滲んだ気がした。
「えっ、純ちゃん・・・」
「ん?」
「涙が」
小さな滴が頬を伝っていく。呼吸が少し荒くなって全身に鳥肌がたつ。おそらく小学生の時以来であろう涙の感触。意図もせず自然にあふれ出た。
浩子も鼻をすすりながら目を潤ませていた。その後、沈黙の時間がしばらく続いた。車が信号で停まった時、浩子が切り出した。
「もらい泣きしちゃった」
「ははっ、歳をとって涙腺がゆるくなったのかな」
「純ちゃん、鼻水垂らしながら、泣いてるのか笑っているのかわかんない」
僕は顔がぐちゃぐちゃになっていた。
「やっぱり、一生泣かなくてもいい」という言葉に込められた、底知れぬやさしさに、ずっと張り詰めていた涙腺が緩んだのかもしれない。あなたはあなたのままでいい、僕はそう言われた気がした。
「そういえば、純ちゃんが怒ってるのも見たことないな」
「あー、確かにないかもなー」
「よし、いつか絶対に怒らせてやる」
(了)
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