「生きる希望の哲学」

紅顔の哲学者を目指して#9  

2024年4月29日(月)

この前と同様、たった7回で書くのをやめてしまった哲学日記を載せようと思う。
今日から数日間にわたって載せていきたい。
今回は哲学について考えて書いたものをそのまま引用する。変な箇所があると思うが多めに見て欲しい。


2023.11.21

哲学とは何であるか。哲学する意味とは何か。最近、哲学というものに興味を持ち始めた僕にはとても難しい問いだろう。
少し前に読み終えた、木田元の「わたしの哲学入門」前半部分には確か、哲学が何かという問いに答えるのは極めて難しいことであると言うようなことが書かれていたと思う。
かなり哲学に精通した、哲学を専門に勉強または研究している人でさえ、哲学が何かというのは難しい問いであるというのだから哲学は厄介である。
確かに素人の自分から見ても、哲学は何かと聞かれて、答えるのはとても難しいだろう。
だが、僕が思う、哲学とは何かは、世の中に当たり前に存在している物やイメージ、現象、概念を当たり前ではないものとして、根本的に問いかける学問であると、一応認識してはいる。例えば、なぜ人間は存在しているか、イチゴが赤いのはなぜか、時間とは何かといったような事柄だろう。
そして、そこから派生し、数学や科学、物理学、宗教、心理学など様々な学問が生まれていき、またそれらの学問の土台をなしていると理解している。
それが合っているかどうかは、これから勉強していく中で解明していくことにしよう。
上であげた本に確か書かれていたと思うが、ほとんどの人(普通の人)は哲学というものを学ぶ、もしくは哲学する意味や価値はそこまでないと。
確かにそうだと思う。人間の存在や時間というもの、つまり当たり前のことについて考えたところで、意味はないから。
だって人間は人間であって、時間は時間だから。
でも、興味を持つ人は一定数いるし、俺もそのうちの一人だ。
ハイデガーの「存在と時間」の解説書の中に書いてあったような気がするが、「存在と時間」が刊行されてよく読まれたその当時は戦争下にあって、その時代の人々は自分の生きる意味や生きがいについて考えなければいけない、過酷な環境下で生きていたため、ハイデガーの「存在と時間」は生きる意味を正当化してくれるような希望の本であったという(多分)。「存在と時間」を希望の本として見出していた人たちと同様に、今、自分にとって“哲学”が生きる上で希望を見出す学問なのである。
だが、自分から哲学に歩み寄って行き、興味を持ち始めた訳ではなく、むしろ逆に哲学というものが自然にこちら側へ歩み寄ってきてくれたような気がする。
以前の日記からかなり時間が空いてしまったが、今後この日記では、哲学的な問いに対して、自分なりの知識を駆使して、考察、探求していきたいと思う。
今も哲学関連の本を読み進めているように、そこで得たものをここでアウトプットする場としてもこの日記を活用したい。
また、次の日記まで間が空かないと良いのだが。


哲学は僕にとって生きる希望だ。
この日記を読み返して改めてそう思った。
これからもどこかで助けられるだろう。
そして、今度は僕が助ける側になりたい。

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