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中年の憂鬱は書くことで救われる

肺結核、知人の自殺、妻との別居などによる猛烈な神経衰弱で引きこもり生活へ。心のツラさを解消するため、友人から勧められて小説を試しに書いてみたらそれが好評で自分の生きる道を悟る。

さて、これは一体誰のことでしょうか?

日本を代表する作家 夏目漱石(『吾輩は猫である』の著者)さんです。

精神を病んでいる人が、何かを「書くこと」で不思議と自分自身が救われるってことがあるんだなぁ。もう何年も前に、何かの書籍で夏目漱石のこのエピソードを知って驚きました。実はこれ、自分自身も同じ経験をすることになるとは、この頃にはまったく想像もつかなかったのです。

1.憂鬱が突然襲ってきた

職業は、研修事業やコンサル、講演などを手掛ける仕事。25歳で起業、今では著作を11作持つ著者でもある。”思考の整理家”という肩書で経営者の意思決定コーチングも行う。起業20周年、上京から10年、著者デビューからもうすぐ10年。

上っ面の事実情報だけを並べると、それなりに仕事を頑張っている人に見えることでしょう。ところが、僕自身は今春、突如として重たい気分にマウンティングされることになったのです。

焦り、いら立ち、戸惑い・・・

今年で45歳になる僕は”中年の危機”に陥ったのか?と思うほどの、原因不明の憂鬱に襲われました。自分の会社の前期(3月末)が終わり、4月からの新期にシフトするタイミングでした。

今となっては分かります、その原因が。

「起業20周年、上京から10年、著者デビューからもうすぐ10年」という自分の履歴に勝手に気負っていたのです。「自分は何もなしえていないではないか?」「何者かになりえたのか?」「このままで後世に何を残せるっていうんだ?」「結局、自分は何がしたくて、どこに向かっているのか?」。自分の会社20周年というメモリアルイヤーも、パーティーなどでお祝いする気持ちには決してなれなかったのです。

それにも関わらず、時代は令和元年の2019年に、来年は2020年でオリンピックという国家を挙げてのメモリアルイヤー。世界は猛烈なスピードで変化し、20代でもユニコーン企業を築く人間が世界中で続出。「あれ、このままでは、自分だけが時代に取り残されるのでは?」

研修や講演で他人には喝破しているくせに、一番自分が進化していないのではないか。そのうちに、夢を語ることも、強気発言をすることもなくなり、熱を込めて語ることが急減していきました。

勝手にかけていた自分への無意識なプレッシャーで、突如として中年の憂鬱が襲ってきたのです。

おそらく、誰しも節目節目には、良い思いばかりで埋め尽くされているわけではないでしょう。振り返ることでネガティブなことに焦点が当たってしまい、中年の憂鬱は珍しいことではないかもしれません。好きなことを自由にしているイメージの起業している人間も、ある仕組みの中で働く会社員も、そこにボーダーラインはないのだと思います。

2.もう一度自分を取り戻したい

かつて経験したことがないほどの憂鬱さは、仕事に向かう足取りも重くしました。子供の”いやいや病”といえば分かりやすいでしょう。食事も嫌、学校へ行くのも嫌・・・これと同じ傾向が、オジサンである自分にも起きたのです。

大好きだったはずの仕事の日、出勤前に蕁麻疹が出ているではありませんか。台風で仕事がぶっ飛んでくれないかなぁ、そんなよからぬ気持ちは当たり前のように毎日襲ってきます。あれだけ仕事ができない家族サービスだけで終わる休日は嫌だった僕が、はやく休日になれー!って心の中で絶叫していました。人にも会いたくない。1日中、何も考えずに寝ていたいよ・・・

なんとか起きて行く仕事現場では「やせたね~、なにかゲッソリしているけど、まさか病気でも?」「表情が疲れていますね、いや、やつれている?休み取らなきゃダメですよ~」「元気あまりないみたいだけど、体調悪い?まさか二日酔いではないよね?」。こんな反応が日に日に増えてきました。

少なくとも、元気な姿で仕事に行かなければ皆に迷惑をかけてしまう。これまで築いてきた信用も一気に崩れ去ってしまう。そんなギリギリの気持ちを振り絞り、人前に出る時は不自然であってもなんとか笑顔をつくって本当の自分を覆い隠していました。

もう一度、自分らしさを取り戻したい。

他人の思考の整理をお手伝いしている場合ではない。自分自身の整理がつかないまま、重たい心の足かせを外せないなんて最悪だ。このまま落ちていくのか、普段の自分に戻れるのか。わずか半年前は、ギリギリの精神状況で瀬戸際に立たされていました。

そうだ!

どうせ、何も今すぐ結論がでないのだから、心や頭を動かす前に身体を動かそう。そう思い、ウォーミングアップ的に、手を動かすことにしました。いつも持参する「何でもノート」に、何でもいいから”何か”を書き殴ってみるのです。ノートを開いた後は、何を書き出すのかな?上空からドローンでノートに向かう自分を覗くように、客観視する気持ちにスイッチを切り替えることになりました。

3.キレイな文章を捨てて書き殴る**

いつかのインタビューで矢沢永吉はこう語っていました。「人はうまくいかない時よりも、先が見えない時ほどしんどいことはないよね」と。矢沢ファンでもない僕が、なぜだかずっと頭の片隅に残っていた言葉です。まさにこの時の僕の心境にシンクロしたのです。

では、ノートに何かを書くことで先は見えてくるのでしょうか?

先は見えないかもしれませんが、「今」の自分を受け入れ、次へのスタート台は築かれる。これがノートを開くことで気持ちのスイッチが切り替わったことの効果でした。

なぜか、不思議と頭や心の中にあることを書き殴るだけで、今の自分が受け入れられ、肯定もできるようになっていったのです。

書き始めたときは、キレイな文章にならないと、頭も心も整理できないはず。そう決めつけていたたのですが、これは自分自身にストップをかけてしまうだけでした。キレイに頭も心も整理できないため、文章で書けるはずなんてないのです。

そこで、とにかくゲロを吐くつもりで、言葉を吐き出そう、ノートに玉石混合の言葉をまき散らしてやろう。その一点からスタートさせ、とにかくペンを持って無意識な手の動きに委ねてみたのです。

すると、不思議ですね、ネガティブなことだけではなく、これまでの良かったポジティブなこと、希望などもたくさん出てくるのです。

4.なぜ、書くことが大切なのか?

問題が発生したとき、落ち込んだとき、人は視野が狭くなります。ネガティブな視点しか持てず、嫌なことになぜだか執着してしまいます。そこから抜け出すためには、どうすれば良いのでしょうか?

自分事にするからツラいため、いっそうのこと、起きている事象を”他人事”にしてしまえばいいのです。もし今、自分に起きていることが他人に起きていたとしましょう。その時、他人になんと声をかけてあげる?いまの状況をどう整理してあげる?どうアドバイスする?

人は不思議と自分のことは適切に洞察できなくても、他人のことはよく見えます。他人事は客観的に見えるから当然ですよね。逆に言えば、どのように自分の中にある「ゴチャゴチャ」「モヤモヤ」「グルグル」を客観的に扱えばよいのか。

単純です。自分の頭の中にあるものを外に出す。それだけです。自分の頭の中にある限りは、あくまでも自分事です。これを紙に書くなり外に全て出せば、目にする文字はある意味”他人事”なのです。紙の上にある文字情報に人格があるとして他人の文字として認知を変えれば、客観視もしやすくなります。

つまり、頭の中にあるものを外に書き出す行為は、自分事を他人事に変換し、主観を客観に変えることです。これにより、いつも他人にアドバイスしているかのように、”的確なアドバイスを自分に行う”キッカケがつかめるようになるのです。

5.スマホと手書きの二刀流

「書く」といっても、スマホがいいか?手書きがいいか?常に神学論争は終わる気配がありません。正解はなく、個人的な正解を見い出せばよいと思っています。

普段の僕は、手書き派ですが、憂鬱が襲ってきたとき、使い分けをしよう!などというほど頭が器用に働かないため、とにかく「書き出すことが先・ツールの使い分けは後」という主義で、結果、二刀流になりました。

※かつて、スマホと手書きノートの是非については過去の投稿もご参照ください。

結果として、憂鬱を解消する際の必勝パターンが自分の中で醸成されていきました。アナログとデジタルの使い分けも。ここで3つのシーンに応じた僕の「書き方」をご紹介したいと思います。

6.思い立った時に書く

思い立った時は、あまり考えずに手元にある紙を使います。メモでもノートでも手帳でも。もちろん会社にあるようなコピーの裏紙や広告の切れ端でもいいのです。

僕の場合は、モレスキンのコンパクトタイプのノートを「何でもノート」と称し、カバンに一冊入れています。方眼タイプで、思い立った時に文字やら図やら何でも適当に書き殴ります。書き殴るという表現がぴったりなくらいに、字のキレイさなんて完全に無視です。枠だってはみ出しまくりでOK。

ただ書くだけで良いのか?

もちろん、書くだけでスッキリするというのであれば、それも良しです。僕の場合は、書き殴った後にじっくりと眺めてみます。

その後、三色のペンで、分類分けをしてみます。 

赤色 = ネガティブなこと
青色 = ポジティブなこと
緑色 = 構想、夢、目標の類

三色を用途に応じて使い分け、書き殴った文字をどんどん囲んでいきます。すると、今の心模様や問題点などが可視化されるため、現状を的確に把握できます。現状が把握できると、不思議とそれだけで心も落ち着いてくるのです。

「なんだ、こんなことで悩んでいたのか?」「問題点はこれだけ?」「あれ、意外にポジティブなことが多いな」など、決して憂鬱になる要素で埋め尽くされているばかりではないことに気づきます。

「少し関係が遠くなったかなと思っていた友人と飲みに行けてホッとしたなぁ」というレベルの話から「懸案だった自社のホームページをフルリニューアルした!」という仕事上の話まで、リストアップしていくと・・・

自分のこれまでの軌跡、立ち位置、軸足、いかに日々前進しているか、これからの展望など、自分を取り戻す手がかり(青色と緑色)が散在していた時のほっこりとした気持ちは昨日のことのように覚えています。

STEP1. = ひたすら書き殴る
STEP2. = 眺める
STEP3. = 3色で分類する

これだけで、大き目の憂鬱が襲ってきたときでも、立ち直るキッカケがつかめたのです。

7.夜に「たった3行だけ」毎日書く

突然大きな憂鬱が襲ってこないようにできないものか?

今春の出来事以来、予防方法を模索していました。すると、「3行日記」というやり方でルーチン化する方法があることを知りました。

順天堂大学医学部の小林弘幸教授によれば、手書きの日記をつけると自律神経が整い、心身をコントロールできるようになるそうです。それも、寝る前にたった3行書くだけでよいのだとか。

【1行目】よくなかったこと
【2行目】よかったこと
【3行目】明日の目標

世の中には様々なノート術や日記方法が語られますが、最大の課題は面倒くさいこと。本当に続くかなぁという心理が僕たちを覆います。でも、3行だけならできそうな気にさせてくれます。

それから、単語レベルやメモレベルであっても、「1分で3行」をさらっと書くようにしてみました。これ簡単!楽ちん!

この3行で大切なことは、「今日は、なんて日だ!」と思うほどの悪いトピックスばかりであっても、はじめから「良かったこと」を2行目に書くような書式のため、おのずと「良かったこと」を思い出しスポットライトを当てます。

ここで気づくことは、物事は必ず影があっても光もある。悪いことがあっても良いこともある。つまり、規模の大小を問わなければ、必ず「2面」あるということです。どうしても1日の印象で、表か裏か1面に引きずられがちになりますが、偏りを無くす点でも3行日記は効果的でした。

かくして、突発的な憂鬱を3行日記の習慣化によって予防することが可能になったのです。

8.普遍的なことはデジタルで書く

先ほどお話してきたような、突発的な時に書く行為、定期的に書く行為を通じて、自分にとってゆるぎない考え方や「軸」ようなものが形作られてきます。

状況が変わっても、きっとこれは揺るぎないなという自分のスピリットとでも言いましょうか。これが溜まってきたら、今度は”自分ためのポジティブな辞書作り”という感覚でデジタルに記録していきます。

もちろん、アナログで新たなノートやメモにストックするのでもいいのですが、もし他の人を救うことにつながれば、これほど自分にとって心地が良い幸せ感はありません。

そこで、見ず知らずの誰かの役に立っている自分という貢献欲と、反応が得られるという承認欲を同時に満たすために、デジタル記録(ブログ)で永遠に残していくことを試みます。

僕の場合は、今はまだ小さな子供がいつの日か道に迷ったとき、これを読んで自分を取り戻してほしい。そんな気持ちで清書感覚で投稿するようにしています。

この話をすると、「私は自分の存在をネットにさらしたくない」や「炎上リスクが怖い」という反応が返ってきます。

そこで、おすすめするのが、匿名・ニックネームをつけて顔も出さずに自分の自己満足用の”シークレットブログ”という位置づけにしてみては?とよく話します。

心配しなくても、著名人でもない限り、はじめはほとんどアクセスもないので炎上はしません。また、人にアドレスを教えない限り、誰もあなたが書いたなんて分かりません。あくまでも自分の記録用に身分が分からないように書けばいいのです。僕自身は自分の正体を明かして書いていますが、決まりがないため好きなように無理しない範囲で投稿していけば良いかと思います。

メルマガやブログ、各種SNSへの投稿は、かなり以前からしている僕ですが、中年の憂鬱に陥った時にノートに書きまくった内容は、いくつか普遍的なものになってnoteにも投稿して記録を残しています。たとえば、自分の核となるものについてのコレなど↓

9.まとめ

このように、(1)思い立った時に、(2)定期的に、(3)残したい時に書くという行為を通じて心の安らぎと頭の中のシンプルさを保つことは、「自分を救うクスリ」であり「未来への懸け橋」でもある。

突如襲ってきた憂鬱と格闘する中で、僕がつかんだ”自分を救う技術”でした。今回の記事が少しでも憂鬱な気分で沈んでいる人の一助になればいいなと思います。

ちなみに、僕自身の憂鬱の末路はどうなったのか?ですが・・・

中年の憂鬱は、”全治3か月”で終幕することになりました。

人は誰しも、道に迷うことがあります。
まったく道に迷わず、無傷で生きていける人など皆無でしょう。

しかし、道に迷い、傷を負いながらでも前進を続けると、一つだけ普遍的なことがつかめます。もしかすると、結果はでないことがあるかもしれません。それでも、必ず成長はしているということです。

結果がでなければ、成長は意味をなさないという反論もあることでしょう。

しかし、人は成長し続ける限り、”今”結果が出なくても、大きなリターンとなって必ず返ってきます。後はタイミングの問題です。

前進し続けている限り、成長し、その成長する姿を必ずどこかで誰かが見ているはずです。だから、決して前進することだけは、どうかやめないでください。

いつも、「書く」ことで自分を救いながら前進すれば、結果が出るまでの道程は鬼に金棒になりますから。

書くことで、憂鬱は救われる。

僕はそう信じています。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

個人的な体験より記。

著者・思考の整理家 鈴木 進介

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