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「価値観の違いで衝突が起こる」


個性の尊重と自己中心的。私にとっては、この言葉が似ているように思える。違いは何だろう。


多様性とは

「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。」

小学館

「異なる」価値観を大切にしている人たちが「同じ」地球・社会で生きていることをも忘れてはいけない。


「価値観の違いで衝突が起こる」

当たり前かもしれないけど、道徳の授業で学んだこの言葉が心に響いた。

「価値観の違いで衝突が起こる」

例えば他者に不満がある場合、その人と自分との間の価値観が異なることが原因だと考えられる。


例えば電車の飲食問題
ビールを飲んでいる人に対してあなたはどう思う?
じゃあ水だったらどう思う?
ペットボトルはいい?ビンだったら?

例えばペットボトル飲料ならいいと思っているあなたの隣に、缶ビールを持った人が座ったとき、あなたは「ん?、いやだな」って思うかもしれない。

それは、あなたの価値観とその人との価値観にずれがあるからだと考えることができる。

それは、国家間の外交でも、友人との間でもいえることだ。

このような場合、どちらが間違っているかなんて誰が決めれるのだろうか?

だから、長期的な関係の場合、価値観のずれに気づくためにも、相手のことを知ることはとても大切だと思う。


個性とルール・社会風習

しかし、「自由・個性の尊重」をこうも捉えることができる。

相手の価値観を知ったうえでルールや社会に合わせて、自分の価値観を変えることは、同時に自分のアイデンティティをなくすことにつながるのではないか?


個性VS個性
自分の価値観が、他の価値観とぶつかった場合、
お互いが「自分は自分。他人は他人。」とした場合、自己中心的になってしまうのではないか。
そして、どちらの主張にも根拠や理由がある場合どう解決するのだろうか。

わがままなのはどちらなのだろうか。その理由はなぜ?個性なのに。
となりかねないのではないか?

言葉の定義や適応範囲が曖昧な「個性の尊重」と「よりよい社会」は必ずしもイコールにはならないと思っている。

教育における個性の尊重って?

鎌倉女子大学のウェブサイトに、個性について書かれているものがあった。

しかし、その内容を聴き質してみると、驚くような個性尊重に出くわすこともある。「家うちの子どもは、お絵かきが好きなので、先生、算数は教えて頂かなくて結構です。」などという言葉は、その最たるものといっていい。この言葉は、「家の子どもは、アイスクリームが 好きなので、先生、根菜類は食べさせなくて結構です。」という言葉と何ら変わりはない。 それがいささか誇張に過ぎた事例としても、それを個性といって押し出す、これと五十歩百歩の言葉遣いは、戦後教育の中で頻繁に耳にする流行言葉はである。

「個性尊重」という言葉の錯覚
https://www.kamakura-u.ac.jp/common/pdf/tayori/tayori128.pdf

ここから考えられることとして、「個性の尊重」という言葉の社会や子供にとっての望ましい意味が、人(親と子供、先生)によってバラバラなのではないかということである。


違う意味での教育が進んだ場合


上記のような、一人一人の価値観や個性の尊重ばかり重視された場合にどうなってしまうのか。

結局個性や個人を尊重しすぎた結果、大多数で共有する考え・ルール・倫理観にばらつきが生まれ、判断基準がなくなってしまうのだ。


すべての違いを認め合えるのか?

違いを含め他者を認め合うことの大切さは知っておくべきだし、違うからと言っていじめたりしてはいけない。「違い」に対して寛容になることは必要だと考える。

でも、どの違いにも寛容になる必要はないと思う
だめなことはだめだということも同時に必要ではないか。
人を殺したり、傷つけたり、モノを盗むことは、法律で定められているが、それらの行為がどれだけ、個性だとしても許されない。

じゃあ悪口をいうことは?
仲間はずれにすることは?
勉強したくない場合は?
キライな教科をすることは?

このようなあいまいなことに対しては先生はどう対応しているのだろう。


すると、結局、学校にとどまらず、よりよい社会を目指したはずが、自由が、いつのまにか住みにくい環境を生みだしている可能性がある。

自由は絶え間ない努力の上に成り立つ

範囲を限定せず、どんな理由でも個性を尊重することによって、よりよい社会が作られるようになるとは今の私は思っている。

だから、自分が個性を尊重するのと同時に私たちが着目しないといけないのは、一見すると対極にある、「全体を見る視野」ではないだろうか?

多様性を主張したり、間違った伝統を正すこともいい。

しかし、私は、憲法や法律の上に自由があるのと同じように、
お互いが相手の意見に耳を傾けたうえで、
バランスをうまくとることを忘れてはいけないと思う。

この問題、難しすぎる。

「個人という概念の中で、全体という概念はけっして見失われてはならないのです。」

茶の本p68

私たちは一人で生きているわけではない。どこかの国に住んでいる以上、その社会で自分以外の人々(全体)がいる。

来学期からの学びで考えに変化が起こるのか

4月から新しい学年で、新しい授業を履修する。
どんな先生と、仲間と、授業が待ってるんだろう。

時や場所、場面によって様々な可能性が生まれてくるし、意見なども変わると思う。具体的な事象や経験に基づいて、これからも考えていきたい。

留学まであと6か月。たのしみだ。


4/5追記

自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。

自由=人の身に在るのみならず一国の上にもあることなり。

学問のすゝめより


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