⭐「世界の終わり」以後にぼくらが検討すべきことについて。(その1)



村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」について書きたいわけではない。
ただ少し書いておかなければ、心のバランスがとれないから、やはり書いておきたい。なぜならあの時点で、「世界の終わり」と言明したのは、やはりこの作家だったからである。
 ところでこの物語が、世に出たのは、1987年のことである。嘘みたいに聞こえるかもしれないが、あのときぼくもおなじように世界が終わるとそう思っていた。だからこの題名にはちっとも驚かなかった。ぼくはきわめて自然にこの物語を読んだ。多くの村上春樹の読者は、世界が終わるということを、比喩としてとらえているかもしれない。だが本当にあの頃すでに世界は終わっていたのだ。そして世界が終わるということは、「風の歌を聴け」が世に出たときに、すでにわかっていたことだった。世界が終わってどうなったのか?いわくユートピアなんてどこにもなかったことが、明らかになった、いわくそれまでのもののとらえかたがまったく役にたたなくなった、いわく人間が世界の主役の座からおりてしまった、いわく家族生活を営むことが、ライフスタイルの選択肢の一つになってしまった、いわく人命が最も重要な価値ではなくなった、ここに列挙された事柄についてさまざまな意見はあるだろうが、ここで言いたいことは、これらのことが多くの人々にとっての共通認識ではなくなったことである。世の中の価値観は変わっていく、そして本当のクリエイターなら、必死で自分自身の含まれる今この時を表現せざるを得ない。クリエイターにとって、生きるということは、表現することに他ならないからである。
 ところで現代の文学史の流れの中でみると、1980年代の村上春樹は、やはり未知の作家として出てきた、と言っていいだろう。どちらかというと、中上健次の方がぼくらにはわかりやすかった。文体という観点からは、確か 風の歌を聴け  は、英語で書いたものを自分で翻訳しているはずである。なぜそんなことをしたのか、というか、そうなっちゃうのか、ということなんだけど、日本語で考えていないからあんなにある意味風通しがよい、というか、あの作品の中には風が吹いているだけ、みたいな印象になるんだと思えてならない。これはとても重要なことにぼくには思えた。そうか、この作家は、日本語の歴史の中に入りたくないのではないか?そう思って、これは新しいと言わざるを得ない、と結論づけようとした。後でこの思い込みが深読みだったと反省するはめなるんだが。
それで2011なんだけど、ぼくは3.11は、出張で仙台にいた。
で、会社の業務としてあの大震災に立ち会った。次の日かその次の日かに福島の原発が水蒸気爆発したときに、社長命で東北支店の立て直しを命じられたのだ。だからその時に国や企業や東北圏の内外の人たちの思惑とか絶望とか、全部景色として見ちゃったわけ。いろんなことを考えざるを得なかった。ちょっとだけかっこ良く言わせてもらえば、ぼくは考古学が専門なので、いつでも「わたしたちは何処から来て何処へいくのか」ということをじぶんの仕事の問いにしてきたんで、なにをやっていても、その言葉が頭のどこかで潜在的にリフレインしてるんだね。でも2011年の4月以降は、それがなんか重い意味を帯びて顕在化してきた、それでその時以降に読みなおしたいと、おもったのが中上健次と宮沢賢治だった。宮沢賢治は、もちろん、グスコーブドリの伝記と銀河鉄道の夜。中上は、ぼくの世界のイメージが、地の果て至上の時 で止まっていたから、その原点をもう一度確認したかったんだと思う。その時、なんかぼくなんかが、歴史的な沈殿物の中でもがいてるとしたら、村上春樹は、その沈殿物の上澄みじゃないかな、と気がする時があった。ちょっとわかりにくいかもしれないけれど、これが村上春樹に対するぼくの違和感の正体じゃないかと、いまぼくは考えているんだ。

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